旅行記:2018年2月長崎3
青い光と赤い光を見た。言葉にならない悲しみ・喜びがある。
# 3日目:2月23日(金) 長崎
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海を臨む大浦天主堂・出島エリアから北へ約8km離れた旧浦上村に、原子力爆弾ファットマンが炸裂した。
午後は長崎原爆にまつわる場所をめぐった。
電停松山町駅(現・平和公園駅)で下車し、平和公園を訪れた。広い公園だった。電停の駅から丘を登ってまず見えるものは、有名な平和祈念像ではなく、豊かな水を湛えた噴水だった。平和の泉と名付けられた噴水にはこのような碑文がある。
、、、、、、、、、、
のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
──あの日のある少女の手記から
碑文の向こうに平和祈念像が見える。像のふもとに至る道はまっすぐに整備された直線道で、参道のような印象を抱いた。
道の左右には各国・各地域から寄贈された平和を祈るモニュメントが展示されている。1980年から2006年までに寄贈された15体のうち8体は、当時社会主義国だったチェコスロバキア・ブルガリア・ポルトガル共和国ポルト市・東ドイツ・ソ連・中国・ポーランド・キューバから贈られた。時代は冷戦がいよいよ終わりに差し掛かる1980年代だ。 戦時中この場所は長崎刑務所浦上支所として使われていた。刑務所は爆心地から最短約100mの位置にあり、原爆投下によって職員18名、官舎居住者35名、中国人・朝鮮人を含む収容者81名、合計134名全員が即死した。現在は鉄筋の基礎部分のみが遺構として残されている。
【平和公園で出会った白猫。母にまっすぐ近づいてきて擦り寄るが、母は動物が好きじゃない】
爆心地周辺を平和公園として整備したのは1951年、平和祈念像の完成は1955年。
平和祈念像の作者である彫刻家の北村西望は台座に次の言葉を残している。
山の如き聖哲それは逞しい男性の健康美
全長三十二尺餘
右手は原爆を示し左手は平和を
顔は戦争犠牲者の冥福を祈る
是人種を超越した人間
時に佛時に神
「時に仏」「時に神」とあるが、私はこの「神」は日本の神ではないと直感した。日本神道の「神」は平和の象徴になり得ない。なぜなら日本の神は近代に国体護持のために再編された神なので、日本神道には平和を祈るという機能がなく、またそういった教義もない。
「人種を超越した人間」のなかに日本の神は含まれていないのは、この日本人離れした筋肉隆々の男性像を見ても分かる。筋肉隆々の父権的な男神、たとえばヤハウェ、ゼウス、シヴァにも「平和を祈る」機能があるかは怪しいが、「大いなる父が人間を超越した力で、人間(子供)同士の争いを諌めてくれるのではないか」という僅かな期待は持てなくもない。
平和祈念像建設それ自体への批判もある。
まず、世界唯一の被爆国である日本から、原子力という強大な力を捨て平和を願うことを訴える像なのに、日本人離れした(西洋風の)逞しい身体を題材にするのは筋違いではないかという批判。
平和祈念像建設にかけた莫大な費用を、被爆者への医療費などに活用してほしかったと被爆者は綴っている。詩人・福田須磨子は作品「ひとりごと」で被爆者としての心境を残している。
原子野に屹立する巨大な平和像
それはいい それはいいけど
そのお金で何とかならなかったかしら
モニュメント自体は平和の役に立たない。大金をはたいて彫刻作品を作っても、それで戦争責任が終わるわけではない。
モニュメントはそこにあるだけは何の機能も果たさない。モニュメントは、モニュメントを私たち生きた人が見ることで、出来事を思い出し、想像を働かせるためにある。
怒りや悲しみといった強い感情は、記憶を長く留めることができない。怒りであれ悲しみであれ、激情は喉元過ぎれば熱さを忘れる。この数年間、インターネットでどれほど多くの怒り・悲しみの表明が、いっとき話題になったと思えばすぐに忘れ去られてきただろう。激情には一瞬で人を駆り立てる爆発的なエネルギーがあるが、その持続力はとても弱い。
芸術、とくに現代アートは、怒りや悲しみに頼らない方法で感情を動かすことができる。一筋縄では理解できない「難しい」作品を通じて、作品を見た人に考えることを強いる。その「感動」の大きさは、怒りや悲しみという激情による感動よりは小さな感情かもしれないが、激情に心動かされるよりも細く長く考え続けることができる。 人は形なき物事に思いを馳せるのが苦手だから、平和祈念像という巨大な偶像を通じて、あまりに大きすぎる被害へようやく想像が及ぶのかもしれない。
そのように私は信じていた。
しかしながら、犠牲者の巨大な偶像である平和祈念像よりも、公園内に展示されていた、原爆投下前の浦上の地図にどうしても心を動かされた。いままで私は、死者数万人、というような、漠然とした大きな量として犠牲を感じていた。その認識は改められた。死者は量で測れるものではなく、一人ひとりが名前を持つかけがえのない他人だ。地図には、浦上が爆風と熱戦で破壊される以前に、誰がどこに生きていたのか記録されている。この名前ある人々がすべて死んだ。
https://gyazo.com/2b96a4dae1caa7203214142c468e4ba8
----- 以下メモ -----
平和公園は、長崎駅の北約2.5キロメートルに位置する面積約18.5ヘクタールの総合公園です。昭和24年に施行された長崎国際文化都市建設法に基づき、原爆の実相を訴えるとともに、世界平和と文化交流のための記念施設として昭和26年に整備を行い、これまで国内外の多くの人々に親しまれてきました。
郷土出身の彫刻家・北村西望氏の作で、昭和30年(1955年)に完成。像の高さ約9.7メートル、重さ約30トンの青銅製で、「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」と作者の言葉が台座の裏に刻まれています。平成11年度に大規模な修復工事を行いました。
半数が東側諸国、ソビエト傘下の東欧・中欧
西側諸国は国家(総意)ではなく地方自治体(部分)による寄贈が多い
考えられる意味:原爆を落としたアメリカ=資本主義社会への非難
冷戦という核戦争
連載『ナガサキの断層 被爆57年目の夏に』(西日本新聞社)
上「浦上と市街 -- 原爆はどこに落とされたか」(2002年8月7日付)
中「天主堂喪失 -- 歴史力を欠いた市民の敗北」(2002年8月8日付)
下「のしかかる虚像 -- 被爆地はアトリエなのか」(2002年8月9日付)
NPO法人長崎人権研究所 制作「原爆と部落とキリシタン」
被爆者のことば 長崎大学 核兵器廃絶研究センター(RECNA)
何もかも いやになりました
原子野に屹立する巨大な平和像
それはいい それはいいけど
そのお金で何とかならなかったかしら
”石の像は食えぬし腹の足しにならぬ”
さもしいといって下さいますな
被爆後10年をぎりぎりに生きる
被災者の偽らぬ心境です
(後略)
福田須磨子「ひとりごと」 (詩集「原子野」より)
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俺だって楽しい旅行がしてえよ