旅行記:2017年1月沖縄
2018年8月〜10月、欧州を回った旅行記を書こう でも旅のさなかだけではなく、旅立ちの前日譚も旅行記だと思う
あるいは事後も
「家に帰るまでが遠足」というのなら、旅立ちを決意したときから旅は始まっているはずだ。そのころ、サラリーマンとして、印刷会社の中で印刷物のスケジュール調整やDTPデザイナーやWEB制作などいろいろやっていたなか、仕事を辞めてどこか(どこにでも)行こうと急に思い立ったのは、たまたま仕事でトレッキングの本にちょっとだけ携わったためだった。バックパックひとつでどこにでも歩いていくことは、毎日東京都下から都心まで寿司詰め不健康鉄道で往復するサラリーマンの身にはとても魅力的に思えた。連鎖的に、私はバックパッカー海外一周経験のある友人を思い浮かべた。風野湊さんは学生時代に休学してアジア・ヨーロッパ・アメリカ大陸を渡った旅人で、その経験を同人誌で旅行記にまとめている。2011年の旅行記だが、半年の旅行の費用も書かれていて、いまの私にはその総額をまかなうだけの貯金があった。 新卒で務めはじめて1年と3・4ヶ月経って、とにかく私は飽きていたし、疲れていた。毎朝の東京の通勤電車は人権を侵害していた。それに毎日8時間座って液晶画面を見続けるのは、人間の生まれ持った身体性に反すると思う。
2016年8月11日だったか、山の日かその前後の日に、友達と鎌倉の海に行った。私達には共通の友達のOさんがいる。私達は美大の油画専攻の同期だった。我々は卒業後も都内にいたが、Oさんは西表島の染色工房に住み込み伝統の織物を制作していた。Oさんの作品が北鎌倉のギャラリーに展示されていたので友達と見に行った。
材木座海岸の海の家の日陰で、太平洋とそこに集いあそぶ人々を見ていた私は急に涙が出た。晴れた暑い青い夏の日は昨日も今日も明日も続き、子供も大人も晴天の海で遊ぶというのに、私は通勤時間を含めて一日の半分を拘束される。オフィスの中は寒く長袖を羽織っているというのに、外は暑く眩しく美しいのに……
その頃は保坂和志の『プレーンソング』を大学生のときぶりに読み返して、なぜこいつらは身体を拘束されていないのか、身体的に自由に生きていられるのか、嫉妬心のような怒りの感情が読書中におこって、保坂和志の小説とは真逆の感情に襲われたことに、いよいよ良くないと思った。
だから、2017年1月に仕事を辞めることにした。区切りをつけることで仕事をやり遂げられた。終身雇用なんてごめんだ。
でも出国は2018年8月になった。1年以上の空白期間、何をしていたかというと、何もしていなかった。辞めたはいいが、新しいことを決行するのに時間がかかった。その間は国内旅行を何度かした。
2017年1月末に家族旅行で沖縄・那覇に行った。家族の有給や弟の進級の都合が良く重なって、そういえば家族旅行らしいことをめったにしない家庭だったのでと沖縄に行った。
沖縄本島の旅行は、弟が日本の近代史を専攻しているため、弟の強い希望で太平洋戦争の史跡を訪ねることがメインとなった。美ら海水族館など観光の定番地も訪れたが、途中に嘉手納基地や普天間飛行場を見下ろす高台に立ち寄った。
那覇へのツアーは3泊4日だったが、私は日数を延期して、Oさんのいる西表島を訪問した。
染め物では、染色のあとに生地を水にさらす工程がある。通常は淡水で行われるが、西表島ではマングローブの生える汽水域に生地をさらすので、独特の手法を見学するために海外からも訪問者が多いのだという。私が訪ねる少し前には、アジアの染め物をめぐるフランスのドキュメンタリーの取材があったと聞いた。西表島では工房が見学者用に貸し出している一軒家に宿泊した。
2月、工房訪問の初日には私のほかに二組の来客があった。ひとりは工房のオーナーについての本を書くために取材に来た大学教授で、芸能や祝祭の研究をしている。こちらの先生とは工房のオーナーとOさんと一緒に食事をご一緒させてもらった。
もう一組のことはよく分からない。例えて語るのに適切な表現が思い至らないが、無理になにかになぞらえるのなら、ドロンジョ・ボヤッキー・トンズラーまたはブルゾンちえみwithB。彼らが結局何をしに来たのかよく分からなかったが、リーダーは女性で、彼女が二人の若い男性(ゼミの在学生か卒業生か?)を雇うか何かして連れていた。男ふたりはよく似た見た目で、ルッキズムを承知で言えば「バックパッカー」か「美大生(デザイン系ではなく絵画系)」のように見えた。区別の付け方は、片方はアメリカンクラッカーのようなアフリカの楽器を持ち歩いていて、スピリチュアル系にも興味があると行っていた。もうひとりはスピリチュアル系に興味はないという。
オリエさんの案内で、彼ら若者ふたりと一緒に染め物をさらすマングローブ林の浅瀬に行った。このマングローブは天然の植生ではなく、オーナーの旦那さんが植えたものだそうだ。旦那さんはほかにも、染め物に使う材料を育てる畑や、養蚕のための桑畑も作っていた。
2月8日、汽水は驚くほど透明であたたかかったが、ズボンの裾を捲り上げてどんどん先を行く3人に私はついていけなかった。その日は捲り上げることのできないスキニージーンズをはいていたからだ。結局、スキニーの股まで水に濡らして私も着いて行った。沖縄といえど2月は寒く、スキニーはあとで工房のストーブで乾かしてもらった。
島ではOさんの軽自動車に乗せてもらって移動した。自動車は海風にやられて錆びきっていて、片方のドアノブも外れかけているすごい車だった。島では、身体にかかる忍耐の種類が、日本・東京と違っている。気候帯が違うことは、体感的には、違う国であることに等しい。
工房オーナー・大学教授と会食したあと、島内の小さなレストランで(ノンアルコールで)飲み直した。島にはまだムラ社会が生きている。小さな共同体に定住することについて、その人付き合いのことを聞かせてもらった。
ところで、染め物工房・Oさんが住む集落・会食したレストランなど、今回の滞在地の多くは西表島の西側である。島の西側は一般に観光客が行くエリアではない。西表島は島を一周する道路が未開通で、南部は山間で集落がなく、道路は北回りに島の東西を結んでいる。島の東側は石垣島や小浜島への連絡船の港があり、観光客への玄関口であるので、リゾートホテルもあり、東京に務めていた人が定年後移住するようなエリアだ。「地元民」のいる昔からの集落は島の西側にある。だから島の東西には微妙に隔たりがある。ちょうど私が西表島に滞在する数日前に、学部の後輩が卒業旅行で西表島の東側のリゾートホテルに滞在していた。後輩のInstagramに浅瀬を行く牛車の写真などが掲載されていた。
翌2月9日、Oさんと2人乗りのカヌーを借りて、島の北部を流れる浦内川のマングローブ林を見学した。私に手漕ぎ船の経験はない。亜熱帯気候とはいえ2月は寒い。おまけにその日は風が強く、観光所の係の人も「本当に行くの?」と言う天候だった。
川は島の中央の山野部から北の湾に向かって流れている。その日は海が時化って、海からの強風に押されて、カヌーはどんどん川を上った。川には手漕ぎカヌーだけでなくそこそこの大きさの遊覧船も通過するので、遊覧船が通る波によってもカヌーが揺れた。 川は途中からマングローブ林を流れる細い支流に入った。外の強風を木々が風を防いで、川に波は無く穏やかで、やっと漕ぎやすくなった。両岸の柔らかい泥からマングローブの根がぼこぼこと突出している。それが地獄の有象無象の人型に見えるとOさんは言った。
しかし帰り道は、海からの風が吹き付ける川幅200mの波打つ川を、向かい風に逆らって漕がなければならない。雨天の川の水はお世辞にもきれいとは言えない泥の色をしている。貸し出された防水バッグにいれたカメラなどの貴重品が、万が一転覆して川に沈んだら本当に困る。そのとき私は本当に命の危険を感じた。仮に川に落ちても死にはしないだろうが、自分の存在が雨風などの制御不能な人外の力によって押し負かされそうになったのはあれがはじめてだった。この話を他人に話すときは「悪天のカヌーで死ぬかと思った」と笑い話に仕立てるけど、「死ぬかと思った」という実感は真実である。
はじめてのカヌーで死にかけた同日、濡れた服をストーブで乾かしてから、Oさんの村内の手伝いごとに同行した。この週末に島内でマラソン大会が開催され客入りがあるので、PTAでヤギ汁を販売するために、ヤギを絞めるという。それは西表島に訪問する前から聞かされていた用事なので私は全く問題なかった。ただ自分が死の危険を感じた直後に、殺す方に回るのは予想外だった。
集落から外れ、草原のわだちを少し行ったところで、ヤギ2頭の屠殺が行われた。1頭は手足を縛られて木に吊るされている。これが非常事態だと自分でも分かっているような奇妙な鳴き声を上げていた。ヤギの首に刃先が入り、逆さ吊りのまま血が抜かれた。もう1頭は地上で男たちに抑え込まれて首を切られた。血と体臭が一帯に漂った。
頸動脈を切ったヤギを地面に横たえると、火炎放射器が登場した。ヤギの固い毛皮の処理を剥ぎ取って捨てるものだと思っていたが、もっと豪快に、炎で毛皮を一掃するようだった。首を切られて血を流し、炎で焼き焦がされたヤギは火を当てられながらなおもまばたきをして、「まだ息があるぞ」と私達を驚かせた。しかし私は、ヤギにはまだ息があるけれど、あれはもう死んでいると確信した。死とはおそらく不可逆性だ。首を切られ、毛皮や皮膚を焼かれたヤギは、今からどんな良い医者にかかっても決して回復しないだろう。死にゆく直線の上に立ったものは、まだ息があろうともすでに死んでいると言っていい。
必然的に自分の死についても考えた。自分自身の死についてというよりも、自分が書いている小説で死ぬ登場人物たちに思いを馳せた。死ぬ人は自分自身の死について記録することができない。当たり前だが、人は死ぬ瞬間に死んでしまうので、死人は自分自身の死を書き残すことができない。死を記録するのは他人だ。死ぬ登場人物にとって作者は他人である。作者自身は死に脅かされないまま、登場人物の死を描く。
表皮を焼き焦がしたあとは、水中で金タワシを使って全身の固い皮を削ぎ落とした。この作業中に着ていた防水パーカーにはヤギの体臭が染み込み、東京に帰って丸洗いするまで臭いが取れなかった。
それが終わったら腹を割いて内臓を取り出す。動物の内臓は腹膜という袋のなかに一式収まっているので、腹膜ごと腹から取り出せば胆汁などで肉を汚さずに済む。うまく臓物を取り出すと、ヤギの胴体は目に見えてへこみ、人間や猫の身体の愛らしい丸みの中身は内臓だということに気がついた。あとに残っているのは肉と骨だけだ。
屠殺したうち1頭のヤギは子持ちだった。肥えていると思ったら腹に子供がいただけで、母体の肉は痩せて少なかったので、人々は残念がった。
皮を剥いだ死体を部位ごとに切り分けると、見知った食材の形になった。この変遷はきわめて不思議だった。殺したてのヤギの刺し身を味見させてもらった。ヤギ肉の独特な臭みがほとんどなく、那覇で食べた固いヤギ刺しよりもはるかに美味しかった。
「2月に西表に旅行したとき、ヤギの屠殺に付き合ったんですよ。今着ている服が、ヤギを絞めたときに着ていた服で。
Goat Simulatorは不死身のヤギが大暴れするゲームだ。狙って作られたクソゲーならぬ「バカゲー」で、プレイヤーが操作するヤギは、高所から落ちても車に轢かれてもガソリンスタンドの爆発に巻き込まれてもロケットで打ち上げられても絶対に死なない。
沖縄旅行から数ヶ月後の9月16日、都内のジビエ料理店で開かれた飲み会に参加した。そこにヤギ肉は出なかったが、イノシシやシカが提供された。諸事情で私の会費はタダになり、好きなものを頼んでいいと言われたので、その日入荷していたヒヨドリを食べた。 犬好き・猫好きの人には理解されないが、たいていの鳥好きの人間は鳥の肉を食べるのも好きだ。犬猫好きは犬猫をめったに食べないけれど、鳥好きは鳥を食べることについてあまり逡巡しない。私はヒヨドリを食べられるのがとても嬉しかった。羽をもいで皮を剥いだ小鳥に味付けをしたものが、皿に乗って出てきた。小鳥の小さな足もそのまま残っている。味はニワトリの心臓(ハツ)に似た赤身の濃厚な味だった。野鳥のヒヨドリは飼育下のニワトリと違って空を飛び回るので、運動量が多く、赤身肉になるのだろう。
ヒヨドリは日本列島の住宅地でよく見られる野鳥で、名前のとおりに「ヒーヨ、ヒーヨ!」と大きな声で鳴く。頭のてっぺんの毛は逆立ち、頬にはピカチュウのような赤い模様があり、とてもかわいく、身近なお気に入りの野鳥だ。
これだけすばらしい生き物を私達は食べているので、ヒヨドリの生きている姿を周囲にも見せたところ、一同はげんなりとしてしまった。悪趣味と思われたようだけど、私は生前の姿を想像せずに、死体をただの食肉の塊としか扱わないことのほうがよほど悪趣味だと思う。
こういう経験を私は笑い話にするけれど、話しているとき、内心で自分の経験を笑ったことは一度もない。私は本気だった。ヤギもヒヨドリも人間も等しく死ぬと分かって、とても嬉しい。
西表島滞在の最終日には、石垣島を経由して、石垣島と西表島の間にある竹富島を訪ねた。竹富島は八重山地方の古い町並みが残る観光地だ。
フェリーを降りた観光客たちは早々に町並みのなかへ散っていった。Oさんと私は港のそばにあるビジターセンターへ向かった。そこはちょっとした民芸資料館になっていて、八重山諸島の地理や民具についての解説があり、おばあさんが棕櫚(シュロ)のような繊維をこよってヒモをつくっていた。繊維を両手ではさんでねじるだけだが、均等にねじり合わせるのは難しいようだ。Oさんが話しかけると、おばあさんは島での生活を語った。嫁入りのときにうたう民謡や、季節のめぐりで星の位置が変わり、星の向きで田植えの時期をはかることを伝える民謡を歌ってくれた。話を聞く観光客は我々だけだった。たぶんたっぷり1時間は話を聞いていた。
そこで私は、離島のおばあさんとか、そういう自分と出生の大きく違う人々とうまく話すことが全く出来ないのに気がついた。自分と似通ったものを知り、自分と似通った出生の人としかうまく会話を紡げない。私は母方の祖母との会話を苦手に思っていた。祖母はその地域でも特別強く訛っていて、ただの日常会話でもうまく聞き取れない。おばあちゃんもあなたと話すのにどうしたらいいか分からないんだよ、と母が言ったことも思い出した。会話がうまくいかないのは、私が祖母の訛りを聞き取れないだけでなく、私と祖母の住む世界が(文字通り)違うのだろう。
対人関係では、共通する言葉のほかに意味や話題が共有されないと話が通じない。同じ日本語を喋っている相手でも、全く知らない話題にはついていけない。
このあと2018年8月にロンドンへ行ったとき、カフェでコーヒーを持ち帰るための簡単な英語を話し、あの竹富島のおばあさんとの会話よりも、ロンドンのカフェのほうが話が通じるとはどういうことだろうとふと頭によぎった。ロンドンのカフェは東京の都市のカフェとほとんど変わりない。東京都民にとって、日本語を話す離島の人よりも、他のメトロポリタン市民のほうが、より近しい同胞なんだろうか……
西表島滞在中の夜に、夜の真っ暗な漁港の堤防でOさんと話をした。あくまでも噂やほら話に過ぎないが、地図にない島があるかもしれない/あるだろう/あるんじゃないの? という断定も否定もしない言い方(そして私の記憶も曖昧なことを合わせて書き記したい)でOさんが言ったことには、「地図にない島があって、閉鎖的な一族が旅人を殺している(食っている?)」(!?)
私は全くありえない話ではないと思った。Oさんは無意味な洒落を連発するような人ではないので、「〝地図にない島があって、閉鎖的な一族が旅人を殺している〟という噂話があること」を私に伝えんとしたことの、理由ではなく意義や重み(あるいは軽さ)(「存在の耐えられない軽さ」?)を受け取った。
東京から西表島までずいぶん遠くに来たと思った。この島の人々はたまたま日本語を話すだけで、ここは半ば日本ではないと思った。事実、直線距離では西表島−那覇間よりも西表島−台湾(台北)の方が近い。
いや、私が「日本」とみなしていたものの正体は「東京」だったのではないか。 「日本のすべてが東京ではない」という一文は自明だけれども、どれほど多くの都民が東京の事情だけで日本を測っているだろう。東京がどれほど多くの人口と知名度を抱える大都市であろうとも、東京もまたひとつの地方(ローカル)にすぎない。 「東京はひとつの地方に過ぎない」という自明の理を、私は体感するまで、理解したようで理解していなかった。東京/那覇/西表/いわき/長崎/札幌……それぞれの地方はいずれも「日本」に含まれるが、地理的に同じ列島に位置し、たまたまそこに住む人達が同じ言語を使っているだけで、真に同一のまとまりではない。
東京で生まれ育った私は、「東京的であるものが日本的である」という思い込みを抱いていた。この列島にはまだ「地図にない島の食人の噂」が流れる余地がある。
ところで、沖縄滞在の最終日、昼頃に那覇を出発する飛行機で東京に帰るために、前日の夕方に石垣空港から那覇に到着して、那覇で一夜を過ごした。沖縄の料理は沖縄本島も八重山諸島のものも美味しかったが、さすがに数日続けては飽きてしまったので、最終日は夕食に那覇の久茂地でスープカレーを食べた。それが本当に美味しくて忘れられない。骨付きの鶏もも肉と、おでんのような大根の輪切りが具材に入っていて、どちらも味がしみてとても柔らかい。今まで食べたカレーのなかで一番美味しかったかもしれない。(私のなかのカレーベスト3は那覇のその店の大根入りチキンカレーと、札幌で友人が勧めてくれたスープカレー、それと東京の読書ができる喫茶店fuzkueのカレーだ。fuzkueを除いて気軽に行ける距離ではなく、見事に日本列島の両極端になった)