ヤレ
本になれなかった部分。
19歳頃に手製本で書籍を作ることをはじめ、21歳頃からはDTPも勉強し、印刷所に同人誌・自費出版物として書籍の制作を依頼するようになった。
その縁で大学卒業後は印刷所に就職した(就職活動で、自分で作った本を見せたところ、まさしく即戦力ということで採用された。私以外にも面接に来た人がいたらしい。蹴落としたんだろう。全く顔も境遇も知らないその人達に思いをはせる)。
本の作品をwebに発表しているうちに、作品を通じて親しくなった人が大勢いる。
友達の書籍制作におせっかいをかけてアドバイスや制作代行もした。
本は私の人生で結構大きなウェイトを占めることになった。
出版不況(それらは書籍の流通システムの欠陥が顕になったものだ)とか電子書籍への移行(するのかしないのか……システムの不足もある)とかによって、紙の本への崇拝が広まった。
SNSの布教で皆々のちょっとした心情の吐露がかんたんにできるようになり、人の嗜好がどこまでも共感によって伝達されるようになった。
データは味気ない。(採算を度外視しても、)紙の本でしか出来ない装丁が良い、という価値観が生まれた。本に載せられている情報ではなく、本というマテリアルが価値を持つ。宝石みたいな。
DTP(Desktop Print=パソコンで印刷物のデータを作ること)によって誰でも印刷物のデータを作れるようになった。web上のPDF作成メーカーやスマートフォンの描画アプリケーションを駆使すれば、パソコンさえもいらない。
誰でもクリエイターになれるようになり、あるいは誰でもクリエイターの心境を知ることができる。著者・編集者・デザイナーが持つ装丁へのこだわりが広く伝わることになり、デザイナー以外にもデザインノウハウ本や紙見本の雑誌が流通した。
私も書籍を単なる情報の塊ではなく、質量や質感を持つ物体として考えているので、特殊な印刷加工技術を駆使した「紙束」への関心はある。
書店で本の購入を決める価値観のひとつに装丁も入れている。佇まいにこだわりのある本は、テキストと佇まいに整合性があり、だいたい佇まいから中のテキストの様子(品質とか、論調ではなく言外に含まれていることとか)が察せれる。
自分でも良い本を作りたいなと思う。
ただ、印刷所で勤めた期間は短かったけど、印刷所でのたった2年弱の経験によって「宝石のような書籍」への崇拝はまったく醒めた(褪めた)。
紙束は宝石ではなくゴミである(紙束は宝石ではなくゴミである)。
とても安直な例え話に変えると、無邪気な好事家が宝石鉱山労働を見て帰ってきた(私がいたのは肉体労働のセクションではなかったが)記憶が、ほかの無邪気な好事家を目にする度にちいさな冷笑と軽蔑と失望を呼んでいる。
書籍は工場でつくられる大量生産品である。書籍は芸術品のように愛されるけれど、(現代の)書籍は「芸術的」であることとは真逆の生い立ちを持っている。
「芸術品=1点もの」という価値は最新の価値観とは言えず一面的である。
「ヤレ」という印刷用語がある。印刷所で発生する刷り損じ紙や廃棄物のことだ。
自宅用の小さなインクジェットプリンターでは、紙3ページ分の情報をプリントするときに使う紙の枚数は3枚である。
工場のオフセット印刷機では、規定枚数を印刷するために、印刷機が本調子になるまで消費される紙と、規定の印刷枚数と、規定の印刷枚数内にまぎれている刷り損じと、規定の枚数に追加される予備枚数と、規定の枚数を刷り終えて印刷機が停止するまでにオーバーランして印刷される紙が消費される。
「ヤレ」は防げるものではなく、制作の工程で必ず発生する余分として数えられている。(紙の発注をするときには必ず「ヤレ」が計算に入れられている。)
大量生産品の品質が安定しているのは、それが大量に製造されているためである。
印刷所の隅に集められた「ヤレ」は紙束として廃品回収に出される。(業者と提携しているらしい。)毎回膨大な量である。
ところで書籍のページの四隅(天地・小口)がまっすぐ揃っているのは、印刷された紙束を製本したのちに断裁しているからである。
印刷物は実際に必要なサイズよりも絵柄を外にはみ出したデータを使って印刷している。
同人誌を作ったことのある人は「塗り足し3mm」という言葉に覚えがあると思う。横105mm×縦148mmの文庫本を作るのに必要なデータは、上下左右に塗り足し3mmを加えた横111mm×縦154mmになる。
文字だけの文庫本の場合、データ作成時に塗り足しは不要と言われることがあるけれど、入校後に印刷所で塗り足しのデータが加えられている。
印刷物の紙の端まで絵柄や背景色が塗られているのは、完成品の上下左右3mmを余分に印刷して、製本の工程で余分を切り落としているからである。
絵柄のはみ出しがなくても、ページの上下・ページをめくる持ち手の方向(小口)の紙束は断裁して揃えられている。
製本工程では折った紙束(折丁)を重ねて接着し、綴じ方向以外にある余分な折り目を切り落としている。
(図がないと説明しにくい……)
新潮文庫では(たしか)古い書籍っぽさを演出するために、わざとページの上辺を不揃いにしている。そうだとしてもページの下辺と小口は切り揃えられていることに注目してほしい。
製造過程がそうなっているので、本を作るたびに「断裁された方」が必ず発生する。
私は印刷所に2年も勤めていない。勤めていたセクションはデスクワークで、決して工場で汗を流して「ヤレ」に向き合ってはいない。私は本気で環境破壊を憂いているわけではない。
『連ねたり想う Vol.0』は本来印刷所のプランの規格にはないオーダー規格(横110mm×縦173mm)を採用している。この本の制作費にはオプション料金として断裁費が加算されている。続刊も特殊規格を予定しているため、この本によって通常の判型の書籍よりも「ヤレ」が多く生まれている。
「作品」として人の手に届くものと、「ヤレ」として人知れず破棄されるものの、質の差を考えてしまう。質とは品質のことではなく、「作品」も「ヤレ」も組成はまったく同じ紙束であるという想像である。
だこの本の制作をもうやめますとか、罪悪感にさいなまれているとか、そういうことではない。ただ私は自分が抱く軽蔑のことを書いて伝達したいと思った。
自分でも良い本を作りたいと思う。情報自体の質だけでなく、情報を掲載している物体に言外に宿る佇まいにも注意して、良いものを作り、届け続けたいと願っている。
本は美しいけれど、美しいものを愛でる人への冷笑と軽蔑と失望はいつでも感じている。冷笑と軽蔑と失望は自分自身にも向いている。装丁を褒めてくれる私の読者にも。責めることはないし私も書籍を美しいと思うけど、軽蔑の感情がなくなることはないだろう。