自然主義的誤謬
「快さ」や「望まれるもの」など、 自然において存在するものによって「善さ」を定義しようとする試みは、 すべて失敗するから誤りである ムーアが言い出して、 学界に大きな衝撃を与えた言葉。 要するに、 「快さ」や「望まれるもの」など、 自然において存在するものによって「善さ」を定義しようとする試みは、 すべて失敗するから誤りである、とする説。 彼自身は、「善さ」は定義できない、と主張し、 ただただ直観的に理解できるだけだ、と論じた。 メアリ・ウォーノックはEthics since 1900において、 自然主義的誤謬は 「自然的なものによって道徳的なものを説明しようとするあやまり」 という側面が強調されがちであるが、 むしろ重要なのは、 「『善さ』という定義不可能なものを定義しようとするあやまり」 という側面である、と述べている(Warnock 1978: 3-4)。(追記 12/24/99) ウィリアム・フランケナは『倫理学』で、 事実によって価値を定義しようとする試み (たとえば、「ある行為が正しいとは、それを神が意志しているということだ」) に対して、それを自然主義的誤謬だと批判することについて検討している。 彼はまず、 そのような試みを単に自然主義的誤謬だと主張することは論点先取であるとしている。 なぜなら、 自然主義的誤謬それ自体は、 「事実によって価値を定義することが誤謬である」と主張しているだけで、 なぜそれが誤謬なのかを説明していないからである。 また、ムーア自身は自然主義的誤謬が誤謬であることを説明するさいに、 未決問題論法(open question argument: 「善いとは快いことである」という定義がうまく行っていない のは、「善いとは快いことか?」という問いが意味をなすことによって知られる、 とする議論)を用いているが、フランケナはこの議論も退けている。 なぜなら、このような問いが未決(open)であるのは、 事実によって価値を定義することができないという理由 によってではなく、 何か別の理由(たとえば、言葉の多義性) によって説明されるかもしれないからである。 フランケナ自身の考えでは、 事実によって価値を定義する試みがまずいのは、 価値の言明が含意する賛成・反対の態度や指令性といったことが、 事実の言明には含まれていないからである。 「たんに事実的主張をしているとき、われわれはそれによって、 みずからの語っているものに対してなんら賛成または反対の態度を とってはいない……しかし、倫理または価値の判断を下す場合、 われわれはこのように中立的ではない; もしだれかが「Xはよい」とか「Yは正しい」といい、 しかも彼自身か誰か他のひとがXを求め、 行なっているということに完全に無関心であったとしたらそれは背理である、 と考えられよう」(『倫理学』翻訳144頁) さらに詳しくは情動説、 指令主義を見よ。
なお、この語は非常に誤用されることが多い。 たとえば、 「自然であることはよい」 という考え方を自然主義的誤謬と呼ぶ人がいるが、 これはムーアの使用法とは異なる。 (ムーアの論点は、善を定義することはできないということなので、 上の「自然であることはよい」という発言自体は、 別に定義とは言えないから誤謬とは言えないだろう)