1. 精神疾患と精神医学
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1. 精神疾患と精神医学
1-1. 精神医学とは何か
精神疾患の診断・治療・予防ならびにそのための研究を目的とする医学の一分野
精神医学は「医学分野の多彩な領域のなかの1つ」にほかならない
人間という存在は身体と精神という2つの次元から成り立っている このような意味での精神医学は「多くのなかの1つ」にとどまらず、大きな2本の柱のうちの1本として重要な役割を担うことになる
内科的疾患や外科的外傷などの身体的問題は、その症状として精神的な変調をきたすことがきわめて多い
身体疾患と闘うことは心身のストレスを伴う作業であり、とりわけ慢性疾患の闘病の過程で精神医学的な援助が必要となることも多い 今日の社会で重要性を増している末期医療もまた、精神医学の知識や経験を求めている 精神医学はあらゆる身体医学と連携することを求められる医学領域であり、高い普遍性と広い応用可能性を持っている
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. (WHO, 1948) 健康とは、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態にあるということであり、単に病気ではなく病弱でもないということに尽きるものではない
この定義は身体と精神の不可分の関係を踏まえ、さらに社会的存在としての人間に注目するところに特徴がある
健康と社会の関わりは重要であるが、とりわけ精神の健康は社会のあり方と密接な関係を持っている
1-2. 精神疾患の特徴と多様性
精神の変調の存在を確認したり評価したりすることにはしばしば困難が伴う
実際には精神疾患においても内心の主観的体験ばかりでなく、これに対応する表情や行動の変化や変調が現れ、身体症状を伴うことが多い
これらを手がかりとして精神状態を推測することは可能であるし、重要でもある
それでもやはり、理学検査・血液検査・画像診断などによって定量化できる多くの身体症状と比べ、精神症状にはとらえどころのない不確かさがつきまとっている
このため、精神疾患やそれに基づく異常な言動については、古来さまざまな誤解や無理解があった
アニミズム的な疾病観は世界各地に広く見られ、とりわけ病変を目で見ることのできない精神疾患は、アニミズム的な説明が受け入れられやすかった
迷信に囚われることなく正しく現実に向き合うためにも、精神疾患の特徴についてよく理解しておく必要がある
精神疾患の多様性
精神疾患の症状には、各種の精神活動の量的・質的な異常が含まれる
量的な異常
気力が沈み気力の低下する抑うつ状態や、逆に気分が昂揚し誇大的となる躁状態など 質的な異常
これに対応する表情や行動の変化
抑うつ状態では口数が少なく行動が遅鈍になり、躁状態ではけたたましく性急になるなどの形で観察される
統合失調症では、幻聴に対して言い返す行動が外部からは「独語」と見えたり、被作為体験(させられ体験)に基づく行動が周囲には意味不明の奇行と思われたりする 各種の依存症では、アルコールや覚醒剤などの不適切な摂取や、ギャンブルへの没入 精神疾患に伴う身体症状も多様
うつ病では心身の全般的な不調の結果としてさまざまな身体愁訴が生じ、精神科より先に内科などを受診するケースも多い 個々の患者・当患者の現実のありように目を転じると、そこにはさらに多様な現実が開けてくる
治療のために処方される薬剤は共通でも、その人固有の事情や背景を的確に理解しなければ、真に有効な援助はできない
「すべてのケースを個別のものとして扱え」
1-3. 正常(健康)と異常(病気)の境界
正常(健康)と異常(病気)の境界をどのように引くかということがしばしば問題にされる
精神医学においては個人の内面的な過程やその行動がそ評価の対象になるから、基準をあいまいにしたままで「正常」と「異常」の線引をするなら、不当な評価を医学の名のもとに押し付けることが生じかねない
統計学的な手法に倣い、何らかの定量化された数値に着目して平均から著しく外れるものを「異常」とする考え方もある
精神や行動のあり方を数値化することは困難なことが多く、仮に可能であったとしてもどこに境界線を引くかという難問は最後まで残る
症状のもたらす量的・質的な逸脱が著しく、本人や関係者の苦悩も大きいため、「正常/異常」の判断に悩む必要のない場合も実際には多い
一方では、たとえば限局性恐怖症(→7. 不安障害と強迫性障害)のように、理論的にはある種の「異常」であり潜在的な有病率も高いものの、多くの人々が自前の工夫で困難を回避しているために、大きな問題にならないものもある 「異常とは何か」という大問題に正面から取り組むことは必ずしも生産的ではなく、「その問題で本人がどのぐらい苦しんでいるか」を考慮に入れて柔軟に判断する方がよさそうに思われる
ただし、精神疾患のなかには病識を欠くものや否認を伴うものがいくつもあり、こうした疾患では本人の訴えを持たず、周囲が介入せざるを得ないことも多い 精神医学における正常と異常の弁別について、すっきりした一般論を立てるのは難しい
各疾患の特徴や現に採用されている診断基準を学びつつ、どこにどのような線を引くことが患者の真の利益になるのかを、慎重に見極めていくことが必要
2. 統計から見た現状
2-1. 精神疾患の動向
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ただ、この時期のとりわけ後半には、精神科などの診療所(クリニック)も急速に増加していることに注意したい
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身近な診療所の増加につれて受診できるようになったことも、受療率の見かけの増加に寄与している
こうした注釈が必要であるものの、精神疾患のために受診する患者数がここ数十年にわたって増加を続けてきたことは間違いない
がんなどではその疾患による死亡率(年間の死亡者数の人口比)が指標とされるが、精神疾患は直接の死亡原因となることが少ない代わりに生活の質を損なうことが大きい
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精神疾患は、がんや循環器疾患と並んで最上位に位置しており、日本人の最大の健康問題の一つとなっていることがわかる
世界的に見ると、日本はむしろ有病率の低い地域に属することがわかる
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うつ病の有病率の世界的な分布についても同様
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ただし、このようなデータは慎重に解釈する必要がある
わが国の場合、都市部では前述のように身近な医療機関が急増してきたものの、都市部以外の地域ではまだまだ精神科医療機関が充足されていない
精神科受診にまつわる心理的抵抗も、一昔前に比べれば著しく低減したものの、欧米諸国と比較して十分に改善されたかどうかは疑問
こうした事情を加味するならば、日本の精神疾患の現状は数字が示す以上に深刻である可能性は否定できない
我有国は多くの先進国と現代社会特有の課題を共有しているが、これに加えて、各種の自然災害、急速な超高齢化などの社会的経済的要因、過去の歴史的経緯に由来する制度的問題などの固有の事情が、わが国の精神疾患と精神医療制度に影響を及ぼしていることに注意したい
2-2. 自殺の問題
日本の自殺者は第二次世界大戦後、概ね年間2万人台で推移してきたが、1998年に突如3万人台に跳ね上がり、この深刻な状況が15年間にわたって続いた https://gyazo.com/1516a85fa65a7e859abe42bf92e6896c
1990年代初めのバブル崩壊をきっかけとして深刻な経済不況が続く中で、1998年に完全失業率が急上昇し、勤労者の生活基盤が危機的なまでに揺るがされたことが指摘されている
この時期の自殺者が50代を中心とする勤労世代の男性で高かったこと、一般にどこの国や地域でも不況と自殺率との間に正の相関があることなども、この仮説を支持する
特にこの時期には、不況によって雇用水準が下がったばかりなく、長年にわたってわが国の経済成長を支えてきた終身雇用制が終わりを告げ、職場の持つ意味が決定的に変わったことも大きなストレス因になったであろう
このような説明からは、自殺は社会経済的な変動に対する適応の失敗によるもので、精神医学と直接の関係はないようにも思われる
しかし米国で行われた心理学的剖検法(自殺者の生前の情報を関係者へのインタビューなどから詳しく収集し、死に至る過程を明らかにする研究法)による調査は、自殺既遂者のほとんどが死の直前に何らかの精神的変調をきたし、精神医学的な援助が必要な状態にあったことを明らかにした 自殺者対策の視点からも、精神科医療の充実は急務
2013年以降、わが国の自殺者数は減少に転じたため、自殺問題は過去のものになったかのように誤解されがちだが、2017年の統計によれば日本人の自殺率は依然として世界で第6位、女性に限れば世界で第3位
また、中高年男性の自殺は減ってきたものの、入れ違うように10~20代の自殺が増え、高齢者の自殺も高い水準にあるなど、決して危機は終わっていない
3. 精神医学とその周辺
3-1. 精神医学と臨床心理学
精神医学と臨床心理学は、精神の変調という現象を理解し、これに悩む人々を援助するという共通の目的をもっている もとより、精神医学は医学の一分野として精神現象の身体的基盤を常に意識し、身体活動とりわけ脳の働きと精神現象との関係を重視する
臨床心理学は、さまざまな心理学の方法論を用いて精神現象を理解しようとする
精神医学においては薬物療法などの身体的両方が治療の重要な柱であるのに対して、臨床心理学は心理療法によって心の問題を解決することを目指し、薬物療法には立ち入らない こうした違いがあるのは事実だが、両者の関係はしばしば過度に対立的に捉えられているようだ
それをもたらしているのは理論的・本質的なことよりも、実際的な問題や歴史的事情といったもの
医学部は理科系、心理学は文科系に置かれ、教育においても研究においても接点が乏しい
医療現場における心理臨床家の面接は医師の指示の下に行われ、診断や治療方針を決定する権限を医師が持っていることも、両者の関係を難しくする
ところがわが国では、精神医学では「精神療法」、臨床心理学では「心理療法」が用いられ、入り混じることは滅多に無い
仮に同じ作業を行っていても、精神科医が保険診療のなかで行うことは「通院精神療法」と呼ばれ、心理臨床家がカウンセリングルームで行うことは心理療法と呼ばれる 医学的診断と心理学的みたては、実際にはそれほどかけ離れたものではない
DSM-IVにおける多軸診断の考え方からもわかるように、精神医学的な診断は患者のあり方の多面的・全人的な理解を目指すものであり、病名の決定はその作業の一部でしかない そうでなくては真に有効な治療を提供することはできないだろう
逆に心理学的なみたてを行う場合にも、個々の患者やクライアントが抱えている疾患の医学的な側面を正しく理解していなければ、適切な方向を選択することは困難になる
両者の違いは力点の置き方の違いに過ぎない
実際の現場では、心理臨床家の行う各種の心理検査が精神医学的診断のための決定的な情報を提供することがよくあり、発達障害に注目が集まるにつれ、そうした場面はますます増えている 表面的な相違点よりも出発点や目的の共通性に注目し、「心の臨床」という大きな枠組みを意識しながら学びや実践を進めることを心がけたい
精神現象を心と体の両面から見ていくことは、「心の臨床」の王道とも言うべき重要な基本姿勢
なお、精神現象を理解するにあたって臨床心理学は共感的理解を重視するが、精神医学は外部からの観察や検査に依拠するといった主張が聞かれることがあるが、これは重大な誤解 個人の内面で起きる心の過程を理解するために、共感というプロセスが欠かせないのは臨床心理学でも精神医学でも変わりがない 精神医学が対象とする疾患においては、共感的理解の射程を超えた重症の病態や、身体疾患に由来する精神変調が多く見られるため、しばしば他の手法が必要となるのは事実
しかし「心の臨床」の基本姿勢には違いがない
3-2. 用語や呼称に関する注記
「神経科」「心療内科」などの看板を掲げながら、実質的には精神科の診療を行っているところが多く見られる わが国の制度では医師が標榜科を比較的自由に選ぶことができる
より心理的抵抗の少ない「心療内科」などを掲げ、受診しやすくなるよう図っている事情がある
神経科は精神科とほぼ同義
かつては精神科が精神死刑疾患を広く担当していた歴史的事情反映するのだろう
実際には精神科と重なる部分も多いため、両科をあわせて標榜するところが多い
かつて精神科が専門とした疾患のうち、認知症やてんかんは最近では神経内科が診療にあたることが増えており、各科の境界も以前とは違ってきている 精神疾患は「心の病」か?
精神疾患と闘う際の心構えには様々な方向性があり得る
「精神疾患」「精神障害」よりも「心の病」のほうが柔らかくて受け入れやすい
「心が病んでいる」という表現は良心や同情心を欠く状態を指すものではないか
心が病んでいると思っていた間は辛かったが、「脳の機能変調」ならば治療するまでだと割り切れた
精神疾患を心理学的な危機とみるか、それとも脳の機能変調とみるかという、精神医学史上の大問題にも通じるものと言える