ゆとり世代の闇
ゆとり世代の語源はゆとり教育という教育政策
学校のカリキュラムを削減し、その分の時間を「個性に合わせた」教育にあてることで個性に富んだ子どもを育てようというもの
土曜の半ドンがなくなったり、円周率が 3 になりかけたり
起こったこと
「個性= 家庭の資本力 * 技能特性 * 早熟さ」だった
一定の基準で計算でき、積み上げ式に差がつくものだったということ
勉強が得意 + 実家の資本が充実している子は塾で勉強した
中学受験がメジャーになったのは自分たちくらいの世代からだったと思う
トップ層の国際順位は上がっているという話を聞いたことがある
スポーツが得意 + 実家の資本が充実している子はスポーツに打ち込んだ
メジャーリーガーや金メダリストが増えた気がする
「努力できた天才/秀才」が相対的に増えた。一方で、「努力できなかった凡人」へのフォローは相対的に薄くなった
言葉を選ばずにいうと、エリートと落ちこぼれ、という構図が強まった
つまり、「同質性」が下がったということ
同質性が下がる
基本的にはポジティブなことだと思う
放っておけば上がっていく(時間と共に微小確率の事象が個人個人に発生する)とも思う
「租税国家」という文脈で見たときには非常にネガティブ
租税国家の理想
「同朋」のために税金を払う(ちょっとアレな言葉だが->同朋)
老いたときのための年金
働けないときのための生活保護
病気をしたときのための医療保険
日本の財政
実は結構、小さな政府(GDP比の行政費用は小さい)
でも、国債発行残高や年金問題を見る限り、財政が健全とは言えない
つまり歳入が少ない
歳入が少ないのは「租税抵抗」が高いから
負担感が強い
ほとんどの人は税金は「払い勝ち」しているのに
行政への不信
社会への不信
社会への不信と同質性
「あいつら」のために税金を払っている感覚
「同朋」のために払っている感覚がない
頭では分かっていても、自分も給与明細を見るたびに、うっとなる
同じ人間だと思えない要因の一つには同質性の低さが有るのではないか
「上級国民」というワードの背景には「あいつら」という気持ちが有るだろう
ゆとり世代は同質性の低さからこういう意識が生まれやすい
多様化が引き起こす副作用とも言えるだろう
財政的に問題だと思うこと
老後3000万の問題
インフレとかは置いといて、そういうレベルで蓄えが無いと死ぬまで生きられないのはまぁリアルだろう。
一方で、それだけの蓄えを作れなさそうな友達は自分の周りにすら結構いる
まぁ名門な私立中高 => まぁ名門な私立大学 => まぁ高給な企業、というプロファイルの自分の周りにすら
世の中全体で見れば、もっと割合は多いだろう。貯蓄0が最頻値らしいし。
つまり、老後3000万というのは基本的にはリアルじゃないと考えられる
世代間の助け合いは現状と同じ縮小ループを生む
じゃあ世代内の助け合いは現実的なのか
こちらに舵をきっていくべきだとは思う
でも、都会のエリートが地方のマイルドヤンキーのために金を払えるのか、という問題
タイムラインを見る限り、厳しそうだ
再配分の根本的な必要性
大抵の人は「助けられる側」に回るタイミングがある
年をとるし、鬱にもなるし、病気もする
「助ける側」はその意識を持ちづらい
から「あいつら」のために金は出せない
国家あるいは、代替する何かによる制約が必要
代替する何か?
コミュニティ?
関係が電子化しているなかで、生活互助のための(=物体的な)コミュニティは生まれるのか?
むしろ「ムラ社会」への嫌悪感は強くなっているのでは
パッとイメージが出来ない
じゃあどうなる?
姥捨て山?
安楽死の合法化
ネガティブかどうかはそれとして、倫理的なバリアは強いはず
共産主義?
北斗の拳?
やっぱりイメージが出来ない
自己投影
自分は現行のシステムにおいてラッキーな方である
勉強が得意になるのが早かった
記憶力、計算力、パターン認識が強かった(なのでIQはそれなりに高い)
裕福な家庭というわけではないが、無理をして教育にお金をかけてもらった
中学受験をさせてもらったし、予備校代も出してもらえた
私立中高大の学費がどこから出てきたのか、自分には分からない....
就職先にも恵まれて、しばらくは職に困ることは無いだろう。
年収も同世代の中では明らかにもらっている
性格、趣味嗜好も「常識」の中に入っている
もちろん自分の努力もあるが、ラッキーの力は否定出来ない
ここで、不安になるのはアンラッキーになったとき、だ
病気をしたら?目が見えなくなったら?話せなくなったら?
大抵のものはアンコントローラブルだ
だからこそ、公共への税金には納得できているし、これからも払っていくことに同意している
「ノブリス・オブリージュ」なんて格好良いものではなく、セーフティネットへの投資として