自分で到達する
例えば「ミッションを決めよう」について
有名な大企業の社長はミッションを作っていたからそれにならおう
歴史に学ぶのだ!
多くの起業家がみんな決めてるから決めよう
投資家はそういうのを欲しがるのだから決めよう
というノリに疑問が湧いていたmrsekut.icon
つければいいの?付ける意味あるの?
この時点ではただの批判に近い
会話していて見えてきた疑問の種
サイクル
知識を得て、
自分の中で崩し
再構成する
ただ讃えて無思考で受け入れるのでもなく、
ただ批判するのではなく、
自分の中で崩しと再考性が必要
例
「XXの原則に反しているからこのコードはダメだ」について ref わかる
原則はわかりやすいが、一般的な名詞についてもそう
しかし、だからといって「XXの原則を知らなくていい」とはならない
その汎用的な原則を知った上で、改めて自分で疑問詞をしてみたい
「React Hooksの良さが全くわからない」が、みんなが良いと言っているので、恐らく良いのだろう、知るまで触ってみよう、という段階がある
「React Hooksだいたいわかったわ」となった上でこの構造に疑問視する
言ってた
目の前の課題に対し、
著名な人の意見を適用したらうまくいきました!という紹介よりも、
その中で自分が到達したものの組み合わせで進めましたという紹介のほうが、魂を感じて面白いのでは、と思った
それが仮に周知の事実の再開発だったとしても、それを自分で気付いちゃった時特有の深さがありそう
例えば、テックブログとかで、「〇〇やってみた」記事の目次やまとめをパッと見たときに
これとこれは自分で到達してそう、これはまだふわっとしてそう(誰かの主張)だな、
というのが目次の字面、表現だけで割とわかる気がする