リチャード・ローティのプラグマティズム観
この文章を読んだメモ
「真理」や「本質」や「実在」という概念は存在しない
世界にも自己にも本質は内在しない
世界も人間も徹底的に歴史的で偶然的なものとみなす
世界の側に真理はない
真理は世界に対する人間の言説の内にのみ存在する
真実は、人間が人間の言語で記述した創造物でしかない
人間の側にも理性のような本質的な能力があるわけではない
例
天動説と地動説は、どちらか一方が真理に近いということはない
天動説よりも、地動説の方がより多くの利点があるというだけ
地動説のほうが、天動説よりも「実在に近い」かたちで宇宙を捉えているわけではない
「人間の意識」を、それ自体として捉えるかと、脳の一機能として捉えるか、も同じ
どちらも異なる目的のために役立つ
どちらがより「実在に近い」ということはない
ニュートンの語彙と、アリストテレスの語彙
アリストテレスの語彙よりもニュートンの語彙の方がより「実在に近い」と考えたくもなるが
それはアリストテレスの語彙よりもニュートンの語彙の方が、自然界の予測がうまくいくということにすぎず、それ以上でも以下でもない
人間が、他の動物に比べてより実在を理解する能力を有している、ということもない
人間も他の有機体と同じ
他の有機体がそれぞれの仕方で周りの環境に対応するように、人間は言語によって外界に対応しているだけ
イルカや蝙蝠が超音波を使うのと同じように、人間は言語を用いるということにすぎない
我々は、自分が偶然によって置かれた立ち位置からしか出発できない
自分が身につけた言語、文化、制度、慣習を越えて、全てを同じ水準において眺める方法はない
一般的で中立的、あらかじめ定式化できるような基準は存在しない
仮にみずからの偶然性を超えて、中立的な立場に身を置くことが可能であるとしたら、
それは人間の立場を超え、神の立場へと身を置くことになる
しかし、神であろうとする欲求それ自体が、いまひとつの人間的必要性にすぎない
したがって、どこまでいっても人間の立場を超えることはできない
様々な言説の間の優劣は、その都度の目的に関する「より有益な記述」と「より無益な記述」とのあいだの区別となる
自分にとっての重要な語彙が、絶対的なものではないことを自覚している
自分の価値観や信念が偶然的であることを理解している
自分の語彙が実在に近いという妄想を懐くことはない
それ故に、常に新しい語彙へと身を開き、そのスタンスを変える用意がある
その語彙を他人に押しつけたりはしない
他者の見解を相対主義とみなすことは不可能だと考えている
プラグマティズム以外に対して
「本質」や「真理」の存在を前提することは、「神」を前提することと同等
「それは相対主義である」という批判は、真理の存在を前提している
「相対主義者」という呼び名は、真理や実在と言った神の名を信じる者が、それを信じないものに対して貼るレッテル
非神格化が完全に達成された文化のこと
全てが並列に存在し、全員がそう捉えている文化
物理学が、詩よりも優れているとか、合理的である、のようには考えない
科学的な理論も、宗教的な教説も、哲学的な議論も、小説や詩も、同等の存在論的重みを持つ
これらはいずれも実在を写し取ることもなければ、実在と一致するということもない
それらは互いに異なる目的のために異なる語彙を用いて、さまざまな見方を創出しているのであり、そのうちのどれかが特権的であるということはない
それらは、新しいメタファーを、つまり新しい言葉の使用法を創りだすものである
自由以外には何の目的ももたない社会
他者の自由を制限するような行為を極力排除しようとする社会
人々が、自らをただ一人の有限な存在にすぎないと感じる
言語は世界を表象しない
人間の言語は外界を写し取るようなものではない
言語とは、「外に存在するものをコピーしようとする営みではなく、むしろ外に存在するものを処理する道具」
哲学にとってもっとも望ましいことは〈哲学〉を行わないことだ
以下の2つを区別する必要がある
世界が外に(out there)あるという主張
世界は私たちの創造物ではない
時空間内にあるほとんどの事物が人間の心の状態を含まない諸原因の結果である
世界は人間と関わりなく存在している
真理が外にあるという主張
世界に対する人間の言説
人間の言葉とは独立した真理はありえない
真理は人間と深く関わっている
なぜなら文がそのような形で存在する、あるいは外にあるということがありえないから
真理は文で記述されたもの、人間の創造物である
真理は規範的概念である
「よい good」や「合理的な rational」と同じ
世界はたしかに人間とは独立に存在しうるが、それ自体は真でも偽でもない
あくまでも世界に対する人間の記述だけが真偽に関わりうる