論語物語
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こうした論語の中の言葉を、読過の際の感激にまかせて、それぞれに小さな物語に仕立てて見たいというのが本書の意図である。
論語四百九十九章中、本書に引用したものが百三十章である。しかし、これらの章句が、如何なる時に、如何なる処で、如何なる事情の下に発せられた言葉であるかを、正確に伝えることは、全然本書の意図するところではない。本書では、ある章句を中心にして物語を構成しつつ、意味の上でその物語中に引用するに適したと思われるような章句は、何の考証もなしに、これを引用することにした。従って、考証的な詮索が本書に対してなされることは、全く無意味である。
論語が一般に読まれなくなってから、すでに久しいものである。私は明治の末期に近く学生生活を終ったものであるが、その当時の学生でさえ、専門の研究者以外に、自ら進んで論語に親しもうとするものは、ほとんど皆無に近い状態であった。その後の状態はおして知るべきであり、今日では、論語という古典の存在さえ忘れている人も、おそらく珍らしくはないであろう。
明治以前はもとより、明治になってからも、その中葉ごろまでは、国民教養第一の書とさえいわれていた論語が、かくも急速に若い人たちに対する魅力を失ったのは、無論時代の影響である。つまり東洋より西洋への時代のあえぎが、若い人たちに東洋古典を味読する餘裕を与えなかったのである。このことは、日本の文化的視野の拡大のために、やむを得ないことであったかも知れない。しかし、文化の健全な進歩を希う立場からは、必ずしも喜ぶべきことではなかった。というのは、真に健全な文化の進歩は、単なる「衣更え」によって成就さるべきではなく、古き生命の内からの生長による「脱皮」によってこそ成就さるべきものだからである。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/下村湖人