菊判の歴史は新聞から
新聞印刷用には、明治10年代前半頃まで、ドイツから輸入された紙(700mm×1000mm)の四つ切が使われていました。この紙の寸法が2尺3寸×3尺3寸で日本古来の半紙(1尺1寸×8寸の8倍に相当するので、大八つ判に対応して、最初は「半紙八つ判」と呼ばれていました。これも尺寸法に下1桁が重なるということからも、いつしか三三判と呼ばれるようになりました。 明治の中頃になると、新聞記事も次第に豊富になり、紙面の大きさが三三判の四つ切では満足できなくなり、当時日本橋区通り1丁目にあった川上商店が、アメリカン・トレーディングカンパニーから、アメリカの標準判24インチ×36インチ(2尺×3尺)の縦横それぞれ1インチ増した、25インチ×37インチ(2尺1寸×3尺1寸):636mm×939mm判を取り寄せてその半裁判を新聞用紙に当てることにした。プラス1インチとしたのは、当時の「せんか紙」の4倍となって都合がよかったためといわれている。これが、三三判に代わって次の新聞用紙の主流になりました。 この新しい用紙のPRのために、新しい名称をつくる必要がでてきました。当時その紙のアメリカの商標がダリアだったことや、新聞の「聞」の字がキクと読めることから,菊の花の標識を付けて、「菊印」の名称で売り出したといわれています。