競走馬は7割が殺処分される
7割は概算で、もっと高そう
寿命を全うできるという意味だとほとんどいないのではないか
馬は、25年から長くて30年生きます
競走馬となるべく、毎年7,000頭生まれるというサラブレットたち。
事故やケガにより、年齢に関係なく引退を余儀なくされる馬は、年間5,000頭に上ると言います。
JRAのホームページには、引退後に「○○乗馬クラブへ行った」ということは書かれていても、その後については言及されていません。
体の大きい馬ですから、食費などの維持費だけがかさんでしまい「必要ない」とみなされ、殺処分されて馬肉として売り渡されてしまうということが、実は普通に起きているんです。
セカンドキャリアの再訓練に120万円程度かかる(ので殺処分が選択されることが多い)
馬の維持に月10万円単位という多額の費用がかかる
特にボトルネックとなっているのが、乗用馬に転用する際の再訓練の期間だ。「競走馬は勝つために闘争心を持たせ、瞬発力を鍛える調教を施す。対照的に乗用馬にはおとなしさや、取り扱いやすさを重視した訓練が必要になる。乗用馬にするための再調教では、これからは競馬ではないということを馬に教え、リラックスさせるところから始めなくてはならない。競走馬としてのメンタルをリセットするだけでも数カ月はかかる」と同調教師。
このトレーニングに最低でも半年はかかるのに加えて、1頭の維持や調教費用は、1か月当たり20万円以上。
ファーストキャリアの馬の飼養管理にかかる費用(飼料代、飼育・調教費用等)は1頭1か月60~70万円程度
競走馬を購入してから発生する費用となります。JRA施設内(美浦、栗東トレーニング・センター)の預託契約は馬主と調教師の直接契約となり、預託料は厩舎によって異なります
全国乗馬倶楽部振興協会に登録されているだけでも、日本全国にはおよそ274の乗馬クラブがあり、乗用馬として登録されている馬は5,000頭(※2010年のデータ)。乗馬クラブだけでは、引退馬の受け口が圧倒的に足りていない
毎年5000頭でるのに乗馬クラブ5000頭だと、ほとんど殺処分という計算になる
乗馬クラブへ行ったとしても、セカンドキャリアを積むことができない。
もとは競走馬として、とにかく少しでも速く走れるようにと生まれた時から調教された馬たちは、乗馬クラブへ行っても競走馬としての習慣が抜けず、乗馬のようにポッカポッカとゆっくり歩いたり、走ったりということが受け付けられないんですね。
馬の気質にもよりますが、最初は荒ぶったり走り出したりして、人間が手綱を引きながら一緒に歩く、ということができません。
横木(横に渡した木)や、地面に倒れている木さえも怖いんです。ジャンプしてまたぐ訓練をするのですが、最初はなかなかうまくいきません。
セカンドキャリアとして、具体的にはどんな道がありますか?
乗用馬
セラピー馬
競技馬
吉備高原サラブリトレーニングでは、引退した競走馬を受け入れてリトレーニングを行うことで「新しい可能性」を引き出し、彼らのセカンドキャリアを応援する活動をしています。
G1優勝馬でも消息不明になる。馬主の私有財産なので話の考え次第である 韓国では引退馬をトラッキングする仕組みができるらしい
欧州
なぜウマだけ?
ウマは一例で、他も総合的に考える必要がある
世界中に問題はあり、解決できるリソースは限られている
いきなり全ての問題は解けないのは事実
問題を解くべきではないというのは誤り
しない善よりする偽善
そもそも善ってなに?
仔馬が食肉、それ以上は加工食品
仔馬は食肉として各地の農場に送られる
競走馬としての第一歩である馴致(ブレーキング)にまで進める馬は限定されてきます。
血統的に繁殖に回っても馬主が見つからず経済的、血統的な理由で見捨てられてしまう
体や心に問題を抱えてしまっている仔馬
ただし、肉体的な理由で生きる事も厳しいとされる仔馬に対しては食肉となれるだけの肉質が無い為に人間用ではなく、動物用の食肉として処分されます。
2歳 加工食品
牡馬は特に筋肉質で食肉として扱いづらい為、
デビュー後 8割以上が現役を終えると加工肉
現役に成れる=鍛錬された、つまり筋肉質に体が作りられている事になります。仔馬のように柔らかく脂肪分の多いならまだしも、現役競走馬の体は筋肉と骨に少しばかりの赤身でしかありません。
これでは用途も限られ、加工食品または飼料が主な処分対象となっています。
一般に国内産(国内でト殺された馬)と呼ばれている馬肉は、実はサラブレッドのような競走馬なのです。ただしいきなりト殺して食べるのではなく、牧場等で放牧し、濃厚な飼料をたっぷり与え、食用として太らせてから肉にするわけです。
年代によってはその場で食べることがあった?
引退場は屠殺されてしまうのが通常であるという見方
生かすのはエゴだという考え方(馬主に責任はないという考え方)