石原莞爾
https://www.youtube.com/watch?v=pYsAg_lWCFo
1889 山形県に生まれる
1902 仙台陸軍地方幼年学校では1/51の成績
1907 陸軍士官学校 13/418
1970 士官へ
1915(25) 陸軍大学校へ進学
部隊勤務を希望していた。上司の命令でイヤイヤ試験を受ける
1918(29) 連隊復帰
歩兵65番体を世界一にすると考えた
日本は守るべき国か?日本の在り方は?と考え日蓮主義に傾倒していく 法華経至上主義の日蓮の考えを明示に田中智学が社会に推し進めようとした(日蓮主義)
この考え方を実践するのが国柱会
国柱会「大戦争が起きて日蓮が現れ徳によって世界が救われる」
1922 ドイツ留学
今までの勉強をまとめ、日本とアメリカは最終戦争になり、勝った方を中心に世界がまとまると考えた
酒は拒否し、考えは直訴するので上司には嫌われていた
長州出身が牛耳っている陸軍を長野出身の永田は打開したかった
木曜会を結成し、軍事のことを話し合った
1928 木曜会でアメリカとの最終戦争が起きるし、満蒙の占領が国内問題を解決すると述べた
1929 一夕会
永田が木曜会と双葉会を合併
一夕会のメンバーは陸軍の中枢にポストを置くようになっていった
武力で満州を解決してもいいと永田以外の陸軍首脳から内諾を得ていた
1930 一夕会の人事で(?)林が朝鮮軍司令官となる
幣原喜重郎は関東軍の謀略だと深く大方針を関東軍に通達 関東軍はこれを無視し、莞爾は朝鮮軍司令官の林銑十郎に派兵要請 林は朝鮮軍を独断で派兵
本来、昭和天皇の詔勅と政府の許可が必要
莞爾「林は使いやすい」
満州事変の成功で、陸軍の中にやったもんがちという空気が醸成された 林は天皇の許可なく軍を動かしたのに不問にされたし世間は称賛した
統帥権に反しても結果を出せばいい
関東軍が領土侵略は簡単だと勘がられるようになった
1932 愛新覚羅溥儀
領有論から満蒙独立論に舵を切る
1932ごろ、陸軍の内部対立があった
皇道派 天皇新政による昭和維新
若手将校
統制派 合法的に列強に対抗する
陸大
永田もこっち
こちらは明確な派閥があるわけではないとも
永田と対立していた一夕会のメンバーが皇道派に取り込まれた
1935 永田が皇道派に殺害される
https://www.youtube.com/watch?v=fUNZOCVMRs4&t=0s
若手将校たちは暗殺したら昭和天皇に任せますというスタンスだった
昭和天皇は側近を殺されたので若手将校を許さなかった
莞爾は皇道派に怒っていた
大佐の莞爾は皇道派のボス
中国はともにアメリカと戦う仲間として見ていたので戦線不拡大を主張。孤立する
左遷される