犬養毅
https://www.youtube.com/watch?v=Dw64orL8jmY
1855 岡山県に生まれる
1871 万国公法(国際法を漢文に翻訳したもの)を知る。理解するためには西洋の思想が必要だった。英語を学ぶために上京する
藤田は犬飼に郵便報知新聞に記事を寄稿する仕事を与え、その金を学費とした
1876 慶應義塾に入学
西南戦争が始まった。犬飼は藤田に学費を援助するからと言われで戦地に趣き情報を送った。 明治政府に敗北した士族は明治政府に対して国会開設や憲法制定を主張
犬飼は帰還するも学費の支払いをしぶられる
国会開設運動に身を投じていく
1880 (25歳)栗本鋤雲から新聞記者に誘われ、大学を辞める。東海経済新報を発行する。
大隈重信の主張
さっさと国会を開設する
イギリスの議院内閣制を模範とした憲法制定
明治政府の薩長出身者による支配はやめて政府の統治は憲法で行うべき
伊藤博文の主張
段階を踏んだ国会開設
君主の権限が強いドイツを模範にした憲法制定
明治政府の参議であった大隈重信は学歴による派閥拡大を狙り、犬養を誘う
1881年 大隈の推薦で統計院権少書記官(官僚)に任命される
国会開設を10年以内にすることを伊藤博文が発表
国会開設に向けてさまざまな政党が現れる
板垣(自由党)の主張
国民主権
一員性議会、普通選挙
フランス民権思想
支持層は農村の中小地主、貧しい農民、士族
大隈の主張
大熊は慶應義塾やインテリ勢力だった
立憲君主制
二院制議会
一定以上の財産を持つ人にのみ選挙権がある制限選挙
イギリスの議会政治
支持層:大地主、実業家、知識人
犬飼は記事を書いて新聞社を立憲改進党よりにするミッションだった
自由民権運動が盛り上がり、政府は治安維持名目で言論の自由や集会の自由を制限した 1886 後藤象二郎が政府に対抗するため自由党と立憲改進党を団結させようとした(大同団結運動) 政府のアメによってこの運動は崩壊した
1888 大隈重信が第一次伊藤内閣の外務大臣に入閣
1889 黒田清隆内閣の逓信大臣として後藤を入閣
犬飼は言論の自由を弾圧する政府に反感を持っていく
1890 第一回総選挙に立候補し、当選
人口比1.1%の人(平均年収の7倍程度稼いでる人)のみ選挙権があった
1894 立憲改進党の地域政党、中国進歩党を結党
1896 立憲改進党や中国進歩党など7政党が合併して進歩党を結成
1897 第五回総選挙。進歩党と自由党で過半数を超える 進歩党と自由党は合併し、憲政党となる
1898 日本初の政党内閣が爆誕するが4ヶ月で分裂
旧自由党の憲政党
旧進歩党の憲政本党
犬飼はこっち
憲政本党は政府にすり寄る改革派と非改革派で対立を始める
犬飼は非改革派
1910 非改革派は他と結束して立憲国民党を結党
桂太郎内閣は国民に高圧的で国民から批判が多かった。犬飼は政友会の尾崎行雄と結束して内閣不信任決議を提出 その後、犬飼は勢力を削がれていく
複雑でまとめるのに飽きた基素.icon
多数議席の政党の総裁がなるものではなかった
政友会と憲政会の派閥争いに不信感を覚えた元老は、総裁ではない人を総裁に任命した
1931年 総理大臣になる
1925 加藤高明内閣でで普通選挙法。25歳以上のすべての男性に選挙権が与えられる。国民の20.1%となる。
犬飼は政治家を引退する。「失敗だらけである」
このころ「第1党の党首が総理大臣となるが、執政したら野党第1党に政権が移る」ルール
田中は中国に高圧外交をした。軍国主義が数おおく入閣政友会はファシズム政党になる。
田中が病死したので最長老の犬飼が総裁となる
岡山の支援者が勝手に犬飼を立候補させていた
意味がわからん基素.icon
1929 政友会総裁になる
ロンドン軍縮会議で与党民政党が軍部の許可なく条約を結んだことを統帥権干犯と批判する ワシントン軍縮会議で強制的に軍縮されていて、補助艦の保有量を7割にしたいと海軍の一部の勢力が考えた 全権の若槻禮次郎は6.975割にすることを交渉したので浜口内閣は条約締結する
0.025割足りないことをよしとしない海軍の勢力がいた→軍の反対を無視して条約を凍結した→統帥権をふるう天皇をサポートする軍令部の意見を無視するのは統帥権の干犯。
「内閣が軍令部のいうことに口出しするのは違憲」
はえー基素.icon
実際にはこれまで、軍は政府が制御していた
兵力量の決定ができなくなる
当時昭和恐慌が起きていたので、国民の不満が高まっていた 金解禁でデフレになった
1930 浜口が狙撃される
犬養らのせいらしい。どういうロジック?
満州事変が起き、止められなかった若槻禮次郎は総辞職 1931 総理大臣となる
インフレ政策をした
軍事にもだいぶ回ったので軍部との仲は悪くなかった
満州の形式的所有権を中国に任せて経済的支配だけしようとしていた
しかし政友会には台中強行派がたくさんおり、中国との非公式会談が潰された
そもそも調停したのはもう死んでいる浜口だが、「政府が調停したのが悪い」という考えで行動を起こした
犬飼はむしろ統帥権干犯なる軍部に都合の良い概念を生み出した人物