漫画の週刊連載はどう成立したのか
概要
戦後、道端で紙芝居→児童向け月刊誌で絵物語(絵+文)→少年向け廉価本(赤本)で絵物語→赤本で長編漫画(手塚治虫がストーリー漫画を確立)→貸本漫画(まとまったストーリーが読める)→週単位の労働が一般的になり、TVも週間単位の放送→漫画も週刊で(週刊連載の勃興)。アシスタントいないと無理。週刊連載では続きがあると買ってもらえるので読切ではなくストーリー主体になる
この流れは15年程度で起こった
もっと前がある
戦後
作家の断絶
戦前の漫画家で、戦後も専業漫画家を続けた例は、新漫画派集団の後身・漫画集団の漫画家の何人かや、児童漫画系の杉浦茂、倉金章介など、非常に少ない。
児童向け漫画は、戦災でほとんどのコンテンツ資産を失いながらも、戦後に急速に再生した紙芝居による所が大きい。紙芝居屋は、1950年代には全国に5万人を数えた
娯楽がないので需要があった?
新聞や雑誌に政治風刺漫画が投稿される
ナンセンス漫画や風刺漫画に代表される大人向け漫画は、「ぼう大な投書家の層」に支えられた。自由な言論がある程度復活したこともあり、新聞や雑誌を舞台に、これらの投書家層によって痛烈な政治風刺漫画が多く書かれた。ただし、GHQを批判した作品は検閲された 「プロレタリア漫画」の系譜を継ぐ「労働漫画」の描き手が登場し
児童向けの月刊誌が発刊
イラストレーションと文章による絵物語
これは紙芝居の系譜
赤本は、少年向け読み物を主とした廉価な単行本シリーズで、書店ではなく、駄菓子屋や紙芝居屋によって販売された。戦前から赤本のラインナップには漫画も存在していた。
赤本に絵物語が入れられるようになる
手塚治虫は、この赤本漫画において、まとまったストーリーを展開する方法を確立し、描き下ろし長編作品『新宝島』(1947年)で赤本漫画ブームを巻き起こした。 紙芝居と並ぶ子供文化の中心となる
日本の経済構造が次第に変化し、週に6日勤務して1日休むという決まった労働単位をとる会社員の増加や
週間単位で番組を放送するテレビの普及
週刊誌の登場
1959 『少年マガジン』(講談社)、『少年サンデー』(小学館)創刊
子供の小遣いで買える価格ではなく
購読を継続してもらうため、当時のラジオドラマにおけるソープオペラをまねた形式で連載 続きが気になるようにする
赤本・貸本においてまとまったストーリーの読み切り漫画がすでに定着していたため、「紙芝居への逆行」とも揶揄された。 この形式は人気に応じて際限なく続けなければならない反面、逆に人気がなくなれば打ち切りとなるという、漫画家にとって多大なストレスと殺人的なスケジュールを強いるものだった。
会社目線: 週刊連載は「雑誌を売る」のが最優先基素.icon 売れる=人気なら経営が安定するし、つまんなければ買ってもらえないので損切りする
集団制作体制の勃興
何人かの漫画家が第一線を退いたり急病死したりする中、一部の若手は、アシスタントの雇用による集団制作体制を築いて、これを解決した。
公称発行部数は10万5000部
創刊時は月2回(第2・第4木曜日)発売、1969年10月から週刊化された。
創刊当初の連載漫画は「くじら大吾」と「父の魂」の2本
読切含めて8本
大物作家は既存三誌(少年マガジン、少年サンデー、少年キング)で連載をもっておりスケジュール的に入り込む余地がなく、また編集予算的にみても無理があるということで、少年ジャンプは中堅以下で勝負をかけることになる。
創刊前から連載の話が進められていた梶原一騎と川崎のぼるの最強タッグがついにやってくる。 両御大はすでに少年マガジンで「巨人の星」を連載していた超ビッグネームで、創刊間もない少年ジャンプにとって大きな弾みとなったことは言うまでもない。
1969 貸本の終焉
週刊雑誌にシェアを奪われた