本田技研工業株式会社
https://www.youtube.com/watch?v=qhwNjlCWel4
ホンダらしさの原点
1906年に生まれる
村に初めて自動車を始めてみる
15歳で湯島の自動車点検に丁稚奉公に行き、10ヶ月目から実際に整備をさせてもらえることになった
2年目の正月に帰省する際に奉公先の社長榊原からバイクを貸してもらえた。初めてのツーリング体験
実家が大変になったのでやめる職人が続出し、実家に問題がなかった宗一郎に仕事が集まる
アート商会を暖簾分けして会社を始めた
自動車のホイールの鋳鉄製のスポークを発明したところ、世界中の自動車メーカーからライセンスが舞い込み、当時の総理大臣と同等の収入となった
それまでは木製ホイールだった
乗り味が大幅に良くなり、事故率が減った
27歳で結婚するが、芸者遊びにハマっていた
芸者に反論されてキレた宗一郎は2階から投げ落とした(電線に引っかかって一名を取り留めた)
壊れないピストンリングを作ろうとしたが、50個トヨタ自動車に納品して47個不良品で帰ってきた
品質管理や原材料について検討していなかったため、量産に苦労することになる 静岡大学に入って勉強するが、試験を受けなかったので退学を命じられる
勝手に大学に入って講義を受けた
ピストンリング等の特許28件
会社を建てて中島飛行機とトヨタに部品供給をした
終戦後にサプライチェーンをピストンリングは製造できなくなったので、トヨタに会社を売って仕事を辞め、人間休業に入った この時金はたくさんあった
密造酒を作ったり遊んで暮らした
原付の発明
妻のさちが機械遊びしている宗一郎にキレて「闇市にコメを買いに行ってみろ(大変なんだぞ)」と言ったところ、宗一郎は「自転車にエンジンつけたるわ」と返した
作ってみると意外と便利だったので主婦に売れると思った
生産能力は1日1台だが、作れば売れた。しかしエンジン在庫が底をつきた
エンジンのための工場を開設した
オリジナルじゃないと嫌だった宗一郎は真似された設計図面を丸めて突き返した
いくつかのエンジンを開発した
D型のエンジンの乗ったバイクがDream
会社のキャッチコピーおぴーThe power of Dreamsはここからきている
苦境の中財務能力が弱いと反省して金を藤澤に任せた。ただし技術に関して口は出させないという約束だった
ベンリイとスーパーカブを発明した
ベンリイ エンジンの振動を吸収する構造
スーパーカブ 燃料タンクの配置で女性でも乗りやすくなった
当時日本はヨーロッパから工業力後進国だと思われていた
数年後に125/250ccで1-5位を独占した
1960年代、設立中数年の会社が世界一のオートバイメーカーとなった
自動車産業に参入した
バイクのブームは続かないと判断していた
エンジンと生産技術の知見で勝負しようとした
アメリカは自由貿易に圧力をかけられていたので通産省は日本のクルマリソースは日産とトヨタだけにしようと考えていたが宗一郎は反発
R&Dを独立、5%を常に拠出
1963年 初の車S500を出した
当時にしては燃費が良かった
宗一郎「空冷で行く」R&D「それは無理だよ。マスキー法の基準を満たせない。水冷!」宗一郎「だめ」
藤澤(これまでエンジニアの自主性を尊重していたが、宗一郎の矛盾した態度は、ホンダの業績を支えるイノベーションの源泉が揺らぐ)
藤澤「あなたは社長なのか、技術者なのか」
宗一郎「......社長としているべきだろう」
藤澤「水冷でやらせるんですね」
宗一郎「それがいい」
藤澤「あなたが辞めるときに私も辞めます」
圧倒的な燃費(17km/L)
GMの会長はおもちゃだと認めなかったが、宗一郎はGMのインパラを買ってCVCCエンジンに載せ替えて送り返した
1974 CVCC搭載のシビックを発売し、世界中で売れた
三部敏宏の就任初会見で全ての車をEV/FCVにすると宣言 ホンダ=宗一郎=エンジンを切り捨てた
次の拠り所はどこか?過去の社長が誰もやっていなかったことをやる正念場