所得倍増計画
10年間でGNPを2倍にする
big push=政府主導
1960年代には「団塊の世代」が中学や高校を卒業し、労働市場に流れ込みました。人口に占める労働可能な人が多い「人口ボーナス期」に入った
1960年までは4,000円前後だった中卒者の初任給は、わずか2年ほどで6,000円に跳ね上がりまし
労働組合も強気に賃金闘争を行い、1961年以降は毎年2ケタのベースアップ率が達成
製品1個あたりの平均費用を最小にできる生産規模
低金利資金提供
業界に合理化計画を策定させた
当時の鉄鋼業は非効率だった
当時の日本は低賃金だったにもかかわらず、日本産の鋼鉄は欧米産のそれに比べて50%も割高
最小効率生産規模は、1950年には100~250万トン
当時の日本でこの規模を持つのは八幡製鉄所のみで、残りの製鉄所はより小さく、効率の悪い設備で生産活動を行っていました。
1960年に所得倍増計画が発表されると、産業界はさらに強気になりました。GNPを2倍にするという下村治の計画を信じたのです
1950年代の自動車組立工場の最小効率生産規模は年間20万台
フォードなどのアメリカのメーカーはこの規模で自動車を作っていました。
1960年代には年間40万台
最新の技術を貪欲に吸収した