岸信介
1896年 - 1987年
第56代内閣総理大臣
晩年は「昭和の妖怪」ともあだ名されつつ、自主憲法制定運動やスパイ防止法制定運動に尽力
――そもそも、岸という政治家は戦後に何をめざしたのですか。
「憲法改正による日本独立の完成」です。日本の傀儡(かいらい)だった満州国の経営に官僚として携わり、帰国後、東条内閣の閣僚として日本の戦時経済政策を指導しました。
終戦後のGHQ(連合国軍総司令部)占領下でA級戦犯容疑者として拘束され、その間に新憲法が制定されます。
政界に復帰して保守合同を主導し、自民党で初代幹事長に就任。87年に世を去る晩年まで改憲を唱え続けました。 戦後の岸の行動は、最終目的である改憲に向け権力を拡大していくことで一貫していました。57~60年に首相を務めた後も、磁石のように様々な人や団体を引き寄せ続けました。そこにつながる政治的、経済的利益を清濁併せ呑(の)んでいく。「昭和の妖怪」と呼ばれるゆえんでしょう。
1955
1955年8月の訪米時、重光葵外務大臣が求める安保改定をダレス国務長官が一蹴した場に同席していた岸は大きな衝撃を受けた。
米の厳しい態度の背景
日本が自主防衛の努力を怠りタダ乗り
米国陣営から離脱することへの懸念
こうした懸念を解消し、安保条約の不平等性を解消する必要があると、岸は強く認識するようになっていく
1957年(昭和32年)1月、米兵ジラードが農婦を射殺するジラード事件が発生し、裁判管轄権が日本側にないということが明らかになると世論は激昂し、日米安保は危機に瀕した。 この事件によって、1951年の旧日米安保条約下では、
日本がアメリカに基地を提供する一方でアメリカ側には日本を防衛する義務はなく
日本はアメリカの基地使用に対する発言権もないという不平等性が国民に対しても明らかになった
1958
日本教職員組合(日教組)との政治闘争においては、封じ込め策として教職員への勤務評定の導入を強行した(これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。 警職法改正以外に防諜法(秘密保護法)の成立に意欲を見せていた 1957年 岸は「秘密保護法についてはいずれ立法措置を講じたいと思っている」とラドフォードの求めに応じている[
防衛庁の国防省への昇格、内政省の設置と地方制による官選知事制度(地方長官任命制度)の復活、独占禁止法改正、小選挙区法などの成立を目指していたとされる
現代的な目線から見ると中国のような政治体制を目指しているように見えるが、背景がわからないと読み解けないな基素.icon