国葬
国家に功労のあった人...の死に際し、国家の儀式として、国費をもって行われる葬儀のこと 日本ではどういう制度になっているのか?
戦前の国葬令(1926-1947)
1926年(大正15年)10月21日に国葬令(大正15年勅令第324号)が公布され、国葬の規定は明文化された。 これにより天皇・太皇太后・皇太后・皇后の葬儀は、特に「大喪儀」といい、国葬とされた(第1条)
7歳以上で薨去した皇太子、皇太孫、皇太子妃、皇太孫妃及び摂政たる皇族の葬儀は全て国葬とされた(第2条)
「国家に偉功ある者」に対し、天皇の特旨により国葬を賜うことができるとされた(第3条)。 天皇の国葬
新しい皇室典範の、葬儀に関する規定は第25条の「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」という記述のみであった 大喪の礼は...その費用が国庫から支出される国葬として扱われている 一方で伝統的な宗教儀礼を含む儀式は大喪儀として、皇室が主宰する儀式として行われている。
違いは何?
皇族についてもその葬儀の呼称にかかわらず、皇室が主宰する儀式となっており、いわゆる国葬としては扱われていない。
これは第二次世界大戦前ならば大喪が行われる皇太后の身位にあった香淳皇后の2000年の葬儀でも同様である。
ただし1951年(昭和26年)に貞明皇后が崩御した際には、国葬と明確にしないまま「事実上の国葬」として一連の葬儀が行われた
なぜ?
誰が許諾する?
天皇以外の国葬
第二次世界大戦後、天皇・皇后以外で国葬が行われた初めての例は、1967年(昭和42年)に死去した元内閣総理大臣の吉田茂である。 吉田の葬儀は、閣議によって国葬と決し、かつ政教分離に基づき宗教色を排して行われた 「国葬」について法律の規定はありませんが、吉田氏の国葬は、生前の功績を考慮して閣議決定に基づいてとりおこなわれ、国葬の総額1810万円は全額が国費でまかなわれました。
2022年(令和4年)に暗殺された元内閣総理大臣の安倍晋三も、同年9月に日本武道館で国葬が行われることとなった 現在、内閣総理大臣経験者をはじめとした有力政治家の葬儀は、内閣、所属政党、所属議院、遺族のいずれかの組み合わせによる合同葬として行うことが多い。
1975年(昭和50年)に死去した佐藤栄作は、存命中(第二次世界大戦後)に大勲位を受勲した三人(吉田・佐藤・中曽根康弘)のうちの一人で、その葬儀は「自民党、国民有志による国民葬」として行われ、経費の一部を国庫から支出する旨閣議決定が行われた。
1980年(昭和55年)に現職首相のまま急死した大平正芳は「内閣・自由民主党合同葬」で行われた。
大平以降は、首相経験者の葬儀が行われる際に内閣が関与する葬儀が慣例化していった
80年に死去した大平正芳氏以降は、政府と自民党が共催する「内閣・自民党合同葬」が主流となった。
元首相が最後に所属していた政党が与党として政権に参画している場合でも葬儀に内閣が関与しないこともある(例として1998年に死去した宇野宗佑、2000年に死去した竹下登、2022年に死去した海部俊樹は内閣が関与しない葬儀となった)。
基準がわからない
誰が言い出すんだろう?
政府内には国葬を行うことに法的根拠の面などから慎重論もあったが、首相の強い思いで実現することになった。
安倍氏の葬儀が行われた増上寺やその周辺には多数の市民が詰めかけ、首相周辺に「国葬がふさわしい」との声が多く寄せられたことも首相を後押しした。首相官邸は内閣法制局と法的根拠について協議し、国の儀式に関する事務を内閣府の所掌として定めた同府設置法に基づき、閣議決定で実施するのは問題ないと結論づけた。 国葬の決定には、自民の国会議員の約4分の1にあたる93人が所属する安倍派への配慮もある
岸田は安倍よりリベラルよりと言われており、安倍派を従えるために安倍に配慮することがあった(要出典)
今回の国葬儀について、様々なご意見や、説明が不十分とのご批判を真摯に受け止め、丁寧な説明に全力を尽くしてまいります。そのため、国会の場で、閉会中審査の形で、私自身が出席をし、質疑にお答えしていきたいと考えております。
https://pbs.twimg.com/media/FbfiP9jUUAA1qN3.jpg
システムは?
予算は?
政府は8月の閣議で、会場設営費など、2億4940万円の支出を決めたが、警備費用などについては国葬の後に公表するとしてきた。
政府は6日、衆議院の議員運営委員会の筆頭理事に対し、国葬の全体規模を伝達した。
関係者によると、警備費用として8億円程度、海外要人の接遇費として6億円程度、自衛隊の儀仗隊の車の借り上げ費用など1千万円程度で、これまでに示された2億5千万とあわせて総額16億5千万円程度が経費として見込まれることが分かった。
誰が承認する?
首相はどういう基準で国葬を催すかについて「具体的に定めた法律はない」と言明した。
国民に行為の強制などをしない限り新たな法律は必要ないとの学説に基づき安倍氏の国葬を決めたと説いた。
国葬の実施は「間違いなく行政権に属する」と明言し、閣議決定の前に衆参両院議長らの了承を得る必要はないとの認識を示した。 宮間 純一
その理由として挙げられたのは、
①憲政史上で最長期間首相を務めたこと
②さまざまな分野で重要な実績をあげたこと
③国内外から哀悼の意が寄せられていること、の3つである。
...岸田首相の言葉にある「民主主義を断固として守り抜く」は意味がわからなかった。不当な暴力で亡くなったからといって、安倍元首相を国葬にすることがどうして民主主義を守ることになるのか。私の理解では、国葬はむしろ民主主義とは相いれない制度である。
国葬という制度が本来的にもっている性質を理解していれば、国葬を実施することにより、「民主主義を断固として守り抜く」という発想が出てくるはずがない。国葬は、むしろ民主主義の精神と相反する制度である。 実際の岸田首相の言葉
「安倍氏を追悼するとともに日本は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く決意を示す」と語った。
本質的に国葬は、国民を一つにまとめようとして実施されるものである。
大久保は、5月14日に石川県士族島田一郎らに暗殺され、そのわずか3日後には葬儀が盛大に行われた。かつてないほどの大がかりな葬儀を、なぜこれほどまでに急いで実施しなければならなかったのか。暗殺されたのだから事前の準備はない。
葬儀を主導したのは、大久保の後継者として内務卿に就いた伊藤博文と、大久保と同じ薩摩藩出身の西郷従道・大山巌らである。
彼らが心配したのは、政府の最高実力者であった大久保が不平士族の手にかかって落命したことで、反政府活動が活発化することであった。前年には、西南戦争があったばかりで、不平士族はもちろん、自由民権派の活動などへも政府は警戒を強めていた。明治政府は、この段階ではまだまだ盤石ではなかった。
伊藤たちは、天皇が「功臣」の死を哀しんでいる様子を、大規模な葬儀という形で国内外に見せつけようとした。葬儀を通じて、天皇の名の下に島田らの「正義」を完全否定し、政府に逆らう者は天皇の意思に逆らう者であることを明確にした。大久保の「功績」を、天皇の「特旨」をもって行われる国家儀礼で揺るぎないものとし、それによって政権を強化しようと葬儀を政治利用したのである。 国葬は、回数を重ねる中で形式を整えてゆく。「功臣」の死を悼むために天皇は政務に就かない(廃朝)、国民は歌舞音曲を停止して静粛にする、死刑執行は停止するといったことも定型化する。私は、このような国葬の形式がおおよそ整ったのは、1891年の三条実美の国葬だと考えている。 近世までの民衆は、自分が日本人であるという自己認識はもっていなかった。
近世に、日本という国家は存在しない。
大多数の人びとは、将軍や大名に対する従属意識はあっても、天皇が何者なのかはよく知らない。
明治政府は、そうした人びとを「国民」に変え、国家の構成員としなくてはならなかった。
その政策の柱の一つとして、天皇は国家統合の象徴として演出され、万世一系の元首として振る舞った。 天皇から「功臣」に賜る国葬は、そうした国民国家の建設のさなかに、国家統合のための文化装置として機能することが期待されて成立した。
もっともわかりやすい例は、山本五十六の国葬であろう 国葬に際して、東條英機首相は、「一億国民の進むべき道はただ一つであり」、山本の精神を継承して「米英撃滅」に邁進し、「宸襟しんきん」(天皇の心。)を安んじなければならない、と国民にうったえた。国民的人気が高かった山本の戦死を利用して、戦時体制を強化しようという意図があからさまである。