事実と思想をかなり無理にでも切り分ける判例
のりしろ:日本国憲法19条と21条の境界は、理論上は「内心の思想か、外部に伝達される情報か」で区分される。しかし実際の場面では、質問された「事実」を答えることで間接的に思想が推測されることがあるため、きれいに切り分けができない場合が出る o1.icon以下のポイントが関係します。
最高裁の判断
「麹町中学校内申書事件」で最高裁は、
内申書に書かれていたのは「外部行動の事実」であって「思想そのものの記載」ではない
その外部行動の記載から、ただちに原告の“内心の思想”を推知できるわけではない
と判示しました。
いわゆる「不可知論」的態度
実際には「大学生ML派の集会に参加」などの情報から当人の政治思想を推測することは不可能ではないため、判決の立場には「現実無視ではないか」という批判がなされます。
最高裁はあくまでも「表面的に書かれたのは思想そのものではないから、憲法19条(思想・良心の自由)の直接侵害には当たらない」という線引きをしています。
しかし、学説などでは「外部行為を列挙するだけでも、実質的には思想を推知させる」として、最高裁の判断を批判する声が根強くあります。
事実と思想の区別の難しさ
この事件は、まさに「外部行動の事実の記述」が、どこまで“思想を推知させる”とみなせるかという問題に直結しています。
最高裁は形式的に「思想そのものを記載していない」と言いましたが、現実には両者が混ざり合っている場合も多く、「完全に切り離すのは無理がある」という批判が出ます。
19条問題が争われた背景
当時、保坂展人氏は「自分の政治的な立場や信条ゆえに内申書に不利な記載をされた」という主張をしましたが、最高裁は「それはあくまで行動面の記述であり、思想・良心に対する評価ではない」と判断しました。
その結果、「外部行為の評価」だとする以上は、19条による保護(“思想の告白を強制されない、思想を理由に不利益を受けない”)に直接違反するとはみなされなかったのです。
要するに「たとえ第三者から見れば、外部行動の記載によって当人の思想が推測できてしまうとしても、法的には“思想そのものを表したわけではない”とみなせば19条問題にならない」というのが最高裁のロジックでした。しかし、そこを「いやいや、外部行動の記載でも実質的に思想が推測できる以上、事実と思想は切り離せないだろう」と批判する学説や意見があるわけです。ユーザーの指摘するように、この判決は事実と思想をかなり無理にでも切り分ける姿勢を見せた一例と言えます。