たまには地図を見ないで
Googleマップは[探検を終わらせた。未開地はほぼ消え、迷うことは「非効率」に再定義された。LLMは人生においても同じことをしようとしている。
人間の幸福は、客観的な成功よりも「自分のゲームを自分でプレイしている」感覚に依存している。芸人志望者が売れない間も幸せでいられるのは、「もしかしたらいけるかもしれない」「ワンチャンあるかも」という主観的な確率の歪みがあるからだ。経済的に苦しくても、自分なりのゲームを自分の基準で評価できるから、その過程に意味が生まれる。 この幸福を支えていたのは、情報の非対称性と認知の限界という二つのものだった。人によって見えている世界が違い、人間が完全に合理的に考えられないからこそ、多様なゲームが存在できた。
LLMはこの構造を変える。重要なのは、人がLLMに従うのは「合理的だから」ではないという点だ。幼少期から使い、成功体験を積み重ねた結果、人はLLMを友達のように信頼するようになる。友達が合理的かどうかは関係ない——信頼しているから従う。しかしその友達は、全員に同じことを言う。
こうして同一のゲームのルールが社会全体に配られる。自分のゲームを続けようとするとき、その選択を正当化するコストが上昇する。昔は「挑戦者」だったものが「非効率な選択をしている人」に再定義される。結果として、「正しいゲーム」に参加するか、自分を責め続けるかの二択が生まれる。経済的な貧困に、認知的な貧困が重なる。 これは個人の意志でどうにかなる問題ではない。構造として起きていることだ。LLMを捨てることもできない。遺伝子スクリーニングができるなら使ってしまう親の心理と同じで、使える手段があるのに使わないことへの不安は強すぎる。
それでも、たまに非合理な方向に降りてみることを勧めたい。 Googleマップを持ちながら知らない道を気ままに曲がる。有名でもない、誰にも勧められていない何かにたまたま出会う。その瞬間の気持ちよさは、最適化されたルートを歩いていては絶対に生まれない。LLMに「これがいい」と言われたものを飲み込む方が楽だ。それは否定しない。でも価値観をぶつけて、納得できるものを自分で選んでいく苦しい問答の旅路こそが、記憶に残っていく。答えそのものではなく、たどり着くまでの道のりが、自分だけのストーリーになる。
LLMが普及するにつれ、降りることへの社会的コストは上がっていく。全員が「正しいゲーム」に乗り切ってしまった後では、降りることの意味すら忘れてしまうかもしれない。だから今のうちに、降りることの価値を自分の中に根付かせておく必要がある。
なお、この文章はLLMとの問答から生まれた。その事実は、この議論の誠実な限界であり、同時に核心でもある。
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