「間接的・付随的制約」の曖昧さ
from 2025-03-12
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猿払基準の最高裁がいうところの間接的・付随的制約(最高裁の定義)って、学説の間接的・付随的制約が抽象的だからその抽象の具体への当てはめをミスったという説はないのだろうか
もしそうだとするとめちゃくちゃかしこい人たちでも判断ミスるぐらい抽象的ってこと?
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猿払事件で最高裁が用いた「間接的・付随的制約」の考え方については、そもそも「直接」か「間接」かの区別自体が曖昧ではないか、と批判する学説があります。
ただし「学説の抽象的な定義を最高裁が具体に当てはめるときに間違えた」という形で明示的に説得力のある批判をしている見解は、あまり有名ではありません(もちろん「結果的に誤った整理だ」という指摘は数多く存在します)。
最高裁が「この規制は表現への直接的な規制ではなく、間接的・付随的に生じる制約だから合憲と判断しやすい」という理屈で合憲判断を下すとき、事実上は表現に大きな影響を与えているのに「付随的」と言い切っていいのか、と問題視されることがあります。
「直接と間接の区別」をどう捉えるかは憲法学でも論争点であり、基準自体がやや抽象的です。抽象概念をどう具体的事件に当てはめるかは極めて難しいため、頭の良い学者や裁判官でも解釈をめぐって見解が分かれたり、誤認が起こり得るほどの難しさがあります。
猿払事件の結論に納得できない人たちは、「そもそもそこまで制約が大きいのだから間接的・付随的というよりは実質的に直接制約しているのではないか」という批判をしています。
したがって「最初から抽象的な理屈を最高裁がミスって適用した」とまでは断言しないまでも、「抽象的な理屈を根拠に、厳格な基準を避けるように判示したのではないか」と見る学説は存在します。
基素.icon全く関係ないものを規制したらたまたま人権規制しちゃった、が学説でいう間接的・付随的制約でしょ
最高裁は人権の及ぼす弊害を規制するためなら間接的としたけど、これは人権そのものって考え方になるよね
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学説上の「間接的・付随的制約」は、本来は「人権(表現行為など)自体をターゲットにしたわけではない規制が結果的に人権を制約してしまった」場合を指す。例えば、騒音を規制するために拡声器の使用時間を制限したら、デモや街宣活動への制約になってしまった、といったイメージ。
一方、最高裁判決(猿払事件など)では「表現行為がもたらす弊害を防ぐ目的で規制する場合」にも、それを「間接的・付随的制約」とみなす傾向がある。ここでは表現の内容そのものを禁止するのではなく、表現行為がもたらす社会的弊害を防止するための規制と整理されるからだと説明される。
学説から見ると「それって実質的に表現行為そのものを狙って規制してるようなものでは?」という批判が生まれる。学説のモデルでは「狙ってないけど結果的に影響が出た」ものを間接・付随と呼ぶが、最高裁の使い方は「弊害を狙って抑制している=事実上表現を抑制している」と解釈し得るからである。
したがって学説と最高裁の用語がずれている面がある。最高裁の「間接的・付随的制約」判断は、表現そのものを禁止する法規範か否かという切り口よりも、「規制目的が表現以外の何か(たとえば公務員の政治的中立性や社会的害悪の防止など)」にあるかどうかに主眼をおいている。
結果として「学説の用語法からすれば『人権そのものを直接規制している』と言える状況でも、最高裁は『弊害を防ぐ規制なのだから、表現を直接禁止しているわけではなく間接・付随の制約だ』」と判示することがあり、両者の言葉の使い方や考え方がずれてしまっている。
このズレが「最高裁の『間接的』は実は直截に人権を規制しているのではないか」「判断基準が甘くなるのではないか」といった批判につながりやすい背景とされる。
基素.icon最高裁の「間接的・付随的」の使い方でいいのだとすると、人権の弊害が出たら人権を制限できてしまう。人権の弊害なんかあるのが普通なんだから、実質的に無意味でしょ
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確かに最高裁がいう「間接的・付随的制約」は、人権そのものを直接禁止するわけではなく、表現行為などが生む弊害を抑える目的の規制であれば「間接・付随」と見なす、という広い枠組みにも読めます。
その結果、表現行為などに何かしらの「弊害がある」と政府が説明できれば、いつでも規制が正当化されるのではないか、という批判が出ています。
しかし日本の裁判所は実際には、立法目的(例えば公務員制度の中立性など)が正当か、手段が行き過ぎていないか(必要最小限かどうか、他に制限の少ない方法はないか)なども判断材料としています。
基素.icon猿払ではLRAは判断してないでしょ
o1.icon指摘のとおり、猿払事件の最高裁判決では、いわゆる「LRAの基準」(より制限の少ない手段があるかを吟味すること)を正面から検討していません。
とはいえ、猿払事件などで「表現行為そのものを狙い撃ちしていないなら、間接・付随的制約として合憲判断をしやすくなる」という最高裁の姿勢は、「結局、幅広く人権制限を認めることにもつながりかねない」との批判を受けています。
要するに最高裁の枠組みは「目的が表現の抑圧でないなら、間接・付随的だ」と整理する性格が強いので、実際に人権への負担が大きくても合憲とされやすいリスクがある、という問題が指摘されるわけです。
結論としては、最高裁の「間接的・付随的」の使い方には「人権の弊害(目的外部性)を理由にどこまでも規制を許してしまうのでは?」という懸念が昔からあり、学説上の批判も強いのが実情です。