JASRAC
成り立ち
作り手
音楽は使われる場所や回数がとても多いので管理が大変
管理を委託したい
利用者
いちいち作り手に個別に許諾を取るのが大変
第二次大戦の直前にできた
ヨーロッパの著作権管理団体の代理人だったウィルヘルム・プラーゲが...日本のラジオ局が流していた外国曲に対して高額な使用料を請求したんですが、放送局側がそれを受け入れなかった。
その結果、1年間くらいラジオから外国曲が流れなくなり、聴取者からクレームが相次いだんです。そのため、政府は法律を改正して、外国曲のレコードを自由に放送できるようにした。
しかし、これだけで混乱は収まらなかったために、プラーゲを追い出す法律をつくった。
1939(昭和14)年に制定された仲介業務法
この法律により、著作権の仲介業務は許可制となり、大日本音楽著作権協会が政府から許可を受けて、音楽著作権の管理を開始しました。これがいまのJASRACです。
国が仲介業務の許可を与えたのは音楽著作権管理の分野ではJASRACのみ
JASRACがいちばん批判されているのは、「独占」だったために時代の変化に柔軟な対応ができていなかったところです。どんどん音楽の新しいメディアが生まれているのに、それにうまく対応できなかった。 仕事
関連