H&M広告削除
「H&Mのバック・トゥ・スクール(新学期)・ファッションで注目を集めよう」 https://gyazo.com/50f56f9f72a3433c65da0ccaed6b42b7
広告取り下げ
この文脈がわかってない基素.icon
広告における性的表現や児童ポルノなどの問題を扱うオーストラリアの作家、メリンダ・タンカード・リースト氏はXで広告を批判。「私が学校で関わる子供たちの多くは自分の外見に不必要な注目を集めたがっていない」「なぜ少女が自分の外見や体、スタイルに注目を集めるべきだという考えを煽ろうとするのか」とした。
これ単体だけどと全然納得できないのでもっと文脈が必要基素.icon
茜新社が声明を出す
小宮氏:前提として、憲法の「思想の自由市場」という観点で、企業が行う広告に対して市民が批判や議論をし、それに企業が反応するーといったやり取りは望ましいものである。
その上でジェンダーやfeminismに関する議論で言えば、「性的に」描かれることが問題なのではなく「性差別的に」描かれることが問題である。例えば女性ばかりが性的対象として描かれたり、家事育児をしているのが必ず女性であるといったステレオタイプなジェンダーロールに従った女性像が表現されたりしているものもそう。端的に言えば「ステレオタイプな表現がなされていないか」という観点から議論が行われてきた。 そうした議論が行われる背景には、現実社会で女性が家事育児の負担を多く担っている、性暴力やセクシュアルハラスメントの被害に遭っている、といったさまざまな現実の問題に対する認識がある。だからこそ、そういった認識の上にどのような表現が望ましいのか、という議論は必要。「性的な表現か、表現の自由か」といった不適切な構図が、必要な議論を阻んでいると感じる。
「公的な空間に性的な表現が出てきてはいけない」という主張は性差別とは全く別の話で、むしろ歴史的には、フェミニズムの議論はそうした主張に反対をしてきている。 例えば女性差別的ではない愛や性愛の描き方は必要であるし、より最近であれば性的マイノリティーの人たちの権利が強く意識されるようになり、多様な愛や性愛の描き方が求められるようになってきた。
女性差別的ではない愛の描き方がステレオタイプ化したらそれ自身が次は差別的な表現になってしまう欠陥のある論理に見える基素.icon