言語が思考に与える影響
『人は国に住むのではない 国語に住むのだ』
『言葉が変わると 私も変わった。性格 ものの考え 善と悪』
っていうのがあって、日常的に思考する際に使用する言語が”母国語”なんじゃないかなって思いました。(会話の言語は相手によって使い分ける物なので思考で)
@yuukamiya68: @HANTUK0096 全面的に同意ですね。ブラジルに戻ると思考がポルトガル語に戻るけど、ポルトガル語には存在しないor僕が知らない語彙の思考が出来なくなるのは凄く興味深い現象だった。 日本文学研究者の小森陽一氏、このかたは小学校低学年から旧チェコスロヴァキアのロシア語学校で学び、6年生の年末に帰国なさって今度は日本の学校に通われたというかたなのですが、このかたの『小森陽一、ニホン語に出会う』(大修館書店)に次のような文章がありました。 「家の近所ではチェコ語、親とは日本語、学校ではロシア語という生活が一年半ばかりつづくと、頭の中で考える言語はロシア語になっていきました。やはり、学校教育の中で使われる言語が、最も強い支配力をもつのでしょう。この状態が日本に帰ってからもしばらくつづいたために、当初は耳から聞いた日本語を、いったんロシア語に翻訳して理解していました。しかし、帰ってから半年ほどたったある日、朝目覚めてみると、頭の中が日本語になっていて、なんとも不愉快な気持ちになったことをいまでも忘れられません。ことばのシステムが変わると、身体による外界の感じ方も変わってしまいます。」
引用が長くなってしまいましたが、冲方さんの場合もそういった感覚はおありでしょうか?
それとも、切り替わるというようなことはなくて、ふたつの言語が同じような比重をもって冲方さんの中に混在しているのでしょうか?
冲方 > おっ、帰国子女につきものの、例のあれですね。
僕もありましたよ。ある日、夢を見たんですが、海外でのワンシーンの記憶が、全て日本語吹き替え版になってました。声も顔も過去のままなのに、ドイツ人もアメリカ人もインド人も、みんな日本語喋ってるんです。俺の頭って何ていい加減なんだろうと、がっくりきましたが、けっこう誰でもそうみたいで、ひと安心です。
ちなみに、そういう風に言語が切り替わると、まずインプレッションの仕方が変わりますね。何かに第一印象を受けるときの自分が「日本的」になります。上手く説明できないんですが――たとえば、驚いたときの、驚いてる自分が、ああ日本っぽい驚き方だな、という感じで自覚されるんです。これは「オーマイガッ」と「なんてこった」の違いというんでしょうか。普通、「なんてこった」は相手と共感する気持ちってあんまりないですよね、むしろ責める気持ちがあるかも。でも「オーマイガッ」は、その場にいる全員と共感する気持ちがあるんです。同情心とか、協力を求める気持ちとか、相手を誉める気持ちとかもですね。そういう意味合いの違いが無数に生じて、「あ、なんか違う自分になった」という気分になります。