ソフトウェアは限界費用がほぼ0
マイクロソフト社が司法的におとなしくさせられたのは、強引な事業の手口、法的な対応のまずさ、検察の熱意のおかげらしいが、この千年紀の公式反トラスト裁判は、この一件が提起するもっと大きな課題をまるで解決できていない。マイクロソフトはいまや、ほぼ独占企業だとされた——でも一方で、新技術開発のために大金を費やすのは、他のだれも提供できないものを販売できる数年間を確保することだ。もっと怪しげな糾弾として、マイクロソフトは顧客をぼったくっているというものがある。
でも、開発に何十億とかかるのに、製造原価はゼロというものの公平な価格って何だろうか?
マイクロソフトはたぶんルール違反をしている——でもそのルールブックはずばりどこにあるのだろうか?
自由市場の標準的な理論的支持は、市場経済では財の価格が、顧客にとっての価値と、その生産費用の両方を反映しているという主張に基づいている——そして顧客の支払い意志額と生産費用の差額はすべて、リソースをもっと効率的に配分するためのシグナルを提供する。追加で1キロのバナナを作るより、追加で1キロのリンゴを作るほうが2倍のお金がかかるのに、顧客がリンゴを買わないなら、リンゴの木は減らしてバナナの生産を増やそう——そして市場が自動的にその調整をしてくれる。
でもウィンドウズ1998を追加でもう一人の消費者に使わせるための費用は?ゼロだ。だから無料にすべきかもしれない——でもそうなったら開発する価値もない。また価格をいくらにすべきかという単純なルールもない。開発者の費用をカバーするだけ? 取れるだけ取ればいいのか? それともどこか中間? (そしてそもそもそれを誰が決める?)
生産者にとっては自分が負ったリスkに対する公正な収益に見えるものが、消費者にはぼったくりにお思えることもある——処方箋薬は、開発者には最初のイノベーションに対する適切なレバレッジに思える値段に見えても、競合他社と反トラストの役人には、強欲な恫喝に等しいやり口に見える。
これはどれも、まったく新しい話というわけじゃない。いささか奇妙ながら、ソフトウェアのような知識ベース産業の基本的なルール——つまり開発はとても高価だけれど生産はほとんど費用がかからないし、顧客が増えれば増えるほど人気が出やすい——は、だれも何も知らないことで夢異な産業に長く適用されてきた。エンターテインメント産業だ。基本的な経済学の点で、ハリウッドとシリコンバレーはかなり共通点を持つし、ディズニーとマイクロソフトは、生き別れの双子だ。だがエンターテインメント産業の変な事業はかつては例外的だったのに、知識ベース企業が今後は普通になるらしい——そしてぼくたちはそれをどう扱うべきか知らない。