権利とはルールにすぎない
権利という概念は、人間がスムーズな生存を行う上で構築された概念の一種と見なせる 権利という概念、ルール、プロトコルを人間同士で暗黙の了解を作ってやりとりしている
権利が存在するのではない
似たような構造の概念
言語
お金
動物倫理における権利を例にとる
動物の生存権を倫理的に認めるべきかどうかといった議題
「倫理的に正しくない」という主張は、論理が逆である 「そのようなものは正しくないように見える、そしてこれを倫理的でないと呼る」と言うべき
倫理的というラベルから、我々の行動の評価をしてるのではなく、
もとより行動に対する評価の価値基準があり、その実践を倫理と呼んでる
「倫理的に正しくない」という言葉には「その結論に至ったあなたの倫理を教えて下さい」と聞くのが道理である
証明問題に答えだけを書いてもこれは論理ではないのと同様
「動物にも生存権を与えるべき」という主張に対して、
「動物には生存権が無い」という反論は適切ではない
なぜなら、この「生存権がある」という倫理が、各自の倫理観に基づくものであり
倫理というものはルールに過ぎないから、これは決め方の問題である
人間の外側に、遵守すべきルールがあるわけではない
遵守すべきルールを作る、あるいはあると信じるという人間側の行為から作られるもの
反論するなら
「あなたの考える動物倫理とは何ですか」とか
この倫理が合理的な理由であっても、感情的な理由であっても、どちらでもよい
よいというのは、破綻していない、という意味
「あなたは、動物に生存権を与えるべきだと思うんですね、私はそうおもいません」でもいい
加えるなら「現状、経済的、エネルギー的問題を抱え、市場競争を迫られている人類に対して、動物の権利を守るためのリソースをどのように確保すれば良いと思いますか?」と聞いてもよい
ただし、この具体的手段が思いつかないからといって、動物倫理が否定されるものではない
ので、これに「わからない」と答えるのも、動物倫理を守るべき側の論理が崩れたことにはならない
以下の条件は、何も矛盾しない
困っている人がいて、
可愛そうだと思っていて、
でもその人を助ける手段がわからなかったり、
余裕がなかったりする状態
動物を守りたい、動物の権利を尊重したい場合には、現状において動物倫理が守られていない現在に置いては、この枠組の中で戦わなければいけない点は難しいと思う
殆どの場合、動物を殺すほうが経済的アドバンテージが大きいので、そのアドを自分から捨てて、代替物や行動を促進しないといけないから