視座の回転
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学際とは、
学際的な学びは、異なる分野や概念を組み合わせ、新しい知識やアイデアを生み出すプロセスです。
これにより、問題解決や創造力が向上し、より深い理解が得られます。
思考、単に情報を記憶するだけではなく、それらの情報を分析し、疑問を持ち、新しい発見やアイデアを創出するプロセスです。学習者は、既存の知識と新しい情報を組み合わせて、独自の概念を構築します。このプロセスは、批判的思考や創造性を促進し、個人の成長や発展に寄与します。 要するに、学習は情報を単純に記憶するだけではなく、それを活用して新しい知識やアイデアを生み出す能力を高めることです。このような学びのプロセスを通じて、学習者は自分の知識を拡大し、問題解決や創造力を向上させることができます。
思想 メタ 研究 客観的
近代の超克をテーマに。
コミュニティ相対化
ヒトのベイズ統計的性質と、
確率的潜在空間を持ったニューラルネットやLLM等の計算機には共通した構造がある。
またそれは、文化の差異を伴う複製や、物語による経済も含めた、
確率的世界モデルの行う等価計算の意味で相似している。
巨視的な「社会」世界モデルの中で個人のとる属性と、
社会的属性=属性は、”生き方”という局所最適性を示す。
この視座は主体性と自由意志の内在を否定するものの、
相対的に、汎化と没個性化を生来的なものとして肯定し。
国家・人間・言語・記号・社会契約・自然・貨幣は、
コードによってフラットになっていく。
近代的で〈人間〉的な、言語と理解のパラダイムが終わる。
「緩やかな浸透膜アルゴリズム」による分断と、
進化して生活空間や自然にまで全域化するインターネットによる、
文化と個人の溶解をテーマに。
加速的に進行する分散型社会システムによる局所権力化、
デジタル封建国家や加速主義に対して、
フラットな浸透膜による強制的包摂を考える。
これは、ある種悪性的に均質化した戦後日本をロールモデルとして、
最もマシな、ベターフラットを生み出すモデルの提案でもある。
アート 主観 ヒト的
知覚と運動としての身体性
ヒトの計算的性質と、そのネットワークのダイナミズムにおける
ミクロとマクロの再帰的相転移に美しさを感じながら。
そうした計算機論的、生物学的視座が
主体性と自由意志を否定することによって。
閉じた系における〈物質〉と〈情報〉の等価計算には寂びが生じる。
だが同時に、無意識な計算である情動に縁起を感じ、
自我に固執する万物への反骨もいとおしい。
このサイバネティクスと相補的なヒューマニズムは、
触れること、見ること。
見られること、触れられることそのものに感じられるのであり、
諸行無常の刹那を感受する、
〈ヒト〉に対する賛歌である。
文化の差異化による重層性をあらわす現代アートの実質的性格は
資本主義という
自然語による解析的な〈近代〉のパラダイムを表象している。
複雑なコンテクストにより隠される
本質性の残酷な美しさと、計数的な美への憧憬を考える。
XR 現実世界 実存と身体
近代的な記号化した社会に対する反骨としてのコミュニケーションの再定義。
新たな知性に対する反骨としての創造と思考。
思考と創造の無意味を論じながら、
作らずには居られない、孤独を持って実存する人間の反骨と抵抗として。
その対話と連帯による主体性の確保として位置する。
それらは量的な空間のコミニケーションであり、
理解なく即結果が出力する自然に於いて、
相互理解を必要とする低速な我々人間に対する対話そのものである。
「信じるさ、君ともこうして分かり合えたんだから…」
アムロ・レイ
何故か円環するもの
結局我々は脳から逃れられない。
脳の感じられる程度の情報量以上は基本無意味。
そしてそれは限りなく自然言語的
視覚は大した事ない。
文脈は限られた人しか追えない
意味は記号
味覚 滅びるのが早い
嗅覚 忘れる
音楽 最強なのか??悔しい
視覚芸術は観念+記号に進化したが、生成アートによって可能な稠密なアートは理解の閾値を遥かに超える。
歴史
構造的でシンプルで面白い物が残った。
デュシャンは秀才タイプだけど、
その意味では最高にクリティカル。
天才なんかそう多くないので、
文化は秀才的に積み上げられる。
=説明可能。理解の閾値や稠密、求めても意味がない.すごいものはわすれる
記号創発システムである文化に組み込まれるには、
創発的に意味づけられる必要がある。
メジャー性
今のアートはインタラクション
メタバース。チームラボでよくね?
物質に於ける質量は感慨深いよね。
体性感覚とフィードバック
凄さへのフォーカス