禅と日本文化
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鈴木大拙
1930年代著作
禅は悟りの修行である。
悟りは解放を意味する
開放は自由に等しい。
禅は自由self reliance
自在 self-being
禅は言語や弁証法哲学とは異なる。
考察
(私たちは人間は言語なければ生きていけない。私たちは集団生活においてのみ自己の存在を維持できるように作られているからだ。禅が最も重要な人間の経験の1つである限り、それを自他のいずれに対しても表現するため言語に頼る必要がある。
具体的かつ直接的で言語の枠内に押しこめることができない対象についてこれを不可得と称してきた。
Miyabi.iconフレームを理解して当てはめるのではなく体得的な実存を重視していると言える
禅の指導に当たっては言葉による指導や概念的説明を抜きであると言う人がある。悟りは個人の内的な産物であり外側から言語によってあって込まれるフレームとは全く別のものになるからである
道
私たちが生きる人生は、一般化とは無縁である。もし一般化こそが人生だとしたら、知性がすべてとなり、哲学者が最高の賢者となるだろう。しかし、キルケゴールが指摘する通り、哲学者は立派な邸宅を建てるも、そこに住む運命にはない。彼は自分自身を含めたほかの誰かのために建設した邸宅を、その隣にある自分の小屋から眺めるだけなのだ。
孟子は言う。「〈道〉は近くにあるのに、人はそれを遠くに求める」。つまり、〈道〉 は私たちの日々の生活それ自体である。
剣の達人の話
ある弟子が剣の修行のために、師匠の元を尋ねた。始めは炊事と家事ばかりやらされ、ある日不安に思った弟子は師匠に剣を教えて欲しいと頼む。師匠は同意した。結果この若者はどの作業も安心して行うことができなくなる。掃除をしても飯を食べても師が現れて背後から彼を棒で打つ。
数年が経ち彼は打撃がどこからやって来ても、かわせるになった。ある日、師は自ら焚火で野菜を調理していた。弟子は、これはお膳立てされた好機ではないかと考える。彼は大きな棒を持ってきて、調理中の鍋に身をかがめて鍋の中身をかき回している師の頭上めがけて振り下ろした。
しかし、師は振り下ろされた棒 鍋のふたで受け止める。
これによって、剣術の秘訣に対する心が弟子の内に開かれた。
それまでの彼には近づけず、この瞬間までは見知らぬ対象であった、その秘訣が。
かくして彼は師の比類ない親切さを、はじめて理解できた。
完璧な剣の達人になるための秘訣の一つとして、特定の精神的な枠組み、あるいは構造を作り出すことがある。
人為的で意識的なシステムやカリキュラムに寄らぬ内発によって得ようとするものである。
禅も同じ、
ただ見よ。感じよ(注意深く)
禅の学びにおいては概念化は消え失せろ
そのレベルにある限り、禅の領域には辿り着けない。
Miyabi.icon自分の言葉で言うなら…
「禅とは、情動とその感覚と、それを知覚する意識的自己を主体とし、それさえも空のして、万物流転のあらゆる物の、ありのままを感じようとする心的及び身体的感覚である。」それは、究極的には主体と客体、意識的自己の感覚を突破することを目指す。
あるいはこの目的地もまた空である。
そして、上記のような「定義」や「概念」を禅が嫌う理由もそこにある。
概念や定義は、ありのままの自然の有り様や、心的作用に、便宜的に呼称し解像度を下げるものでしかない。その意味で、唯物論的でない訳だし、「唯物論の限界」を示唆してすらいる。なぜなら、エントロピーの増大する複雑系においては、統一的な計算はその近似にしかならないからだし、「ただ感じる」と言うことが人にとって最も解像度の高い行為と言えるが、それさえも。外界のの近似に、あるいは表象に過ぎないからである。
万物に仏が宿ることと、アミニズム
石を見た時、石もあなたを見ている。
石が己を規定する。
思弁的内観で外を見る時、全ての見る物に己のフレーム(自己)が宿る(ここで言う宿るは、概念は文脈を内包するということ。)カメラはただ外界を見るが、我々にとっては、この世界は自己の現し身に満ちていて、その自己は空なので。万物は空であり仏であるというのは理に叶う。
因果性の縁起
石を蹴って跳ね返ること。
Miyabi.icon禅はもう一度流行る。
言い方悪いが
自然主義的人間観とか、
あと、自由意思と合理性がないなら。
「感じること」と「身体性」が人間の価値になって、計算機含めた社会(自然)とそれを感じて、
コミュニティでシェアする人間の感受性を賛美することが価値になっていく。
Miyabi.icon喜びを共有しよう
禅と日本の芸術
絶対の捉え難さとしての弱々しき、だが、孤高の釣船。無限の水面
多種多様な存在の中のただ中にある超然とした物を鑑賞するーー
否定形なら
俗世に依存せず、他方で時代や社会を超えた価値を有するものを内面に感じることである。
非対称の美学に対する大拙の考察
日本美術に見られる非対象の美術。
茶の湯
水墨画
瓢鮎図
考案とその答えを各人が詩に表した。
下には考案を表す図がある。
書斎図
禅僧の理想の心象風景たる山水に佇む書斎と、漢詩の添えられた掛け軸。詩画図
方丈の襖
四季山水図
瀟湘八景。湿潤な山河。スターウォーズの遠景
山水 花鳥 人物モチーフが多い
禅画
禅宗絵画とは異なりポップ。
筆が丸く構図もパターン的。
このトーンでジョブズ描いたら面白い
わびさび
非対称
アンバランス
貧
孤高
日本の芸術や文化の、最も際立った独自の特徴である。これらすべてが、禅 の真理のうちつの中心的なものの見方から発している。すなわち「一即多、多即一 (the One in the Many and the Many in the One)」、あるいは「一が多の中で個的かつ集 合的にとしてある」という見方である
前は汎神論的な教えではなく知恵や般若の直感の表現として理解すべきであり概念的に分析すべきものではない。
分析の手続きを進めようとした瞬間前ではなくなる自己の経験を常にそのまま受け入れ、いかなる哲学的体系付けもしない。
禅師がいわんとする分別とは、私たちが〈現実〉をあるがままに受け入れるのを拒 否した時に、私たちが持つもののことだ。その際、私たちは〈現実>を反省し、いく つかの概念に分解し、知的に考え続けた結果、最後には循環論法に陥ってしまう