声字実相義
声
声は音のある響き
字
実相
本質のこと。
これらが異なることと、そのインタラクション
義
六離合釈といってさまざまな解釈がある。めんどくさい 事と言
言葉が現実を支配する
Miyabi.icon仮称の世界
satayavacana
仏教
中国哲学
声
空海はその流れを継承して、「交鏡秘府舗」巻一の四声論において、「名は実を離れず、実は
名に遠からず。名実の相い憑ること理自ずから然り。故に声は物を逐いて以て名を立
て、紐は声に困りて以て転注す。」(【定弘】六・二九)と記している。ま
<>中国哲学の碩学加地伸行は「対象に接して、それを他と分別し、明晰にする行為として<名)が用いられる。この物(人を含む)に対して名づける行為、換言すれば物とことばとの対応)が言語のあらゆる意味での出発点である」(『中国論理学史研究』研文
出版、一九八三年、六三頁)。
認識以前と言語
Miyabi.icon言語のいろんな機能を分けて考えるべきだな。
本質、認識、日常
通信としての言語と思考のための言語
声字実相義
前半
後半
物質と、認識
もともと物質とされている顕・形・表の三色に対して、内と外、酢と依、法然と随縁という対立項を当てはめ、生物・非生物を問わずすべての物が三色を具え持ち、互いに交流し合うと説く。もともと法相宗などが用いる一般仏教の専門用語をそのまま利用して、その中に密教の主張で 三密と三業
こ え と
現代表現】
頌の最初の句における、五大とは、一に地大、二に水大、三に火大、四に風大、五に空大のことである。この五大には、顕教的な見方と、密教的な見方と、二通りある。
顕教的な見方は、常識的に言われているような五種の物質的な要素との理解である。
一方、密教的な見方によれば、五大とは、それらを単なる物質的な要素ではなく、真理を本質とする大日如来の言語的な象徴であるア(a)、ヴァ(va)、ラ(ra)、カ(ha)、キャ(kha)の五字、あるいは真理を身体でもって表した金胎両部の五仏、それだけではなくありとあらゆる仏のことを表している。この五大については、『即身義』の中に詳しく説いているので、そちらを参照されたい。
このように生きとし生けるもの(内)と、山川星などの環境世界(外)を構成する五大には、悉く声と響きが具わっている。あらゆる音と声は、この五大を離れては存在しない。このように五大とは声の本体であり、音響はその働きである。それ故に頭には
「五大に皆響き有り」と述べられている。
十界の至るところ全てに仏が住まう
秘密語
此の十種の英字の真妄云感・若し黙浅深の釈に約せば、則ち加界は妄なり。仏界の文
字は真実なり。故に経に、真語者、実語者、加語者、不誑語者、不異語者と云う。此の
五種の試は梵には愚茶羅と云う。比の一言の中に五種の差別を具するが故に、意は
私密請と名づく。此の秘密語を則ち真言と名づくるなり。訳者、五つが中の一種を取っ
て翻ずるの
金剛般若経では、釈迦の言葉()仏のことを真語で語る物としている。
<>
<><又、云何が自ら心を知る。調く。或いは顕色、あるいは形色、若しは受想行識、若
しは我、若しは我所、若しは能執、若しは所執の中に求むるに不可得なりと云う者、此
れは顕形表色の名を明かす。顕形は文の如く知ぬべし。自下は即ち是れ表色なり。取捨
業用為作等の故に。
見くの如く一切の顕形表の色は是れ眼所行・眼境界、眼識所行・眼識境界・眼識所縁、
意識所行・意識境界・意識所縁なり。之を差別と名づく。
見の如くの差別は即ち是れ文字なり。各各の相、則ち見れ文なるが故に、各各の文に
則ち各各の名字有り。故に文字と名づく。此れ是の三種は色の文字なり。或いは二十種
の差別を分かつ。前に調う所の十界の依正の色差別なるが故に。