原初仏教
サンスクリット語: बौद्धधर्म、
英語: Buddhismは、
苦から。この出発点は特異。どの宗教とも異なるし、時代的コンテクストでもなさそう。
これは彼の彼自身の生まれ(バラモン)に対する嫌悪があったかもしれない
↓
一切皆苦
「種の執着 (upādāna)の素因(五取蘊) は苦しみであ る」(「律蔵」I、六、一九)
というのは、誰しも否定できない事実ではなかろうか。
ここに五種の 「執着」の素因とされる「五取蘊」(pañica-upādāna-khandhā) とは、
仏教では我々の身心を含めて全 体を構成している五つの「集まり」を指し、
「色」「受」「想」「行」「識」を意味する。
我々の「生 老病死」のほか、
「怨憎会苦」(憎いものに会う苦)
「愛別離苦」(愛するものと別れる苦)
「求不得苦」 オンゾウ エク アイベツリク (求めても得られない苦)も、
全体として「五取蘊苦」つまり「一切皆苦」の中に生きている。
「諸行無常」と「諸法無我」
なぜこの五取蘊が苦かといえば、我々の世界の現実をつくっているこれらのものが、
すべて「無常」であって、永続的なものは無く、常に変化するからである。
生まれて老いて死んでゆく変化を止めることは出来ないし、現実はたえず変わってゆく「諸行無常」
その実体のない変化してゆくものを、何か永続的なものととり違え、
不変化なものとしてそれにとりついて、自分のものとして執着することが「苦」の原因となる。
それらは縁となり因となる「縁起」によって生じてくるものだから、
自分のものだととりすがってはいけない 「諸法無我」。
「一切皆苦」から「涅槃」への論理構成
「縁起」 によって成り立っているものを直視し、
それへの渇愛によって生ずる煩悩を正しい智慧と修行によって断てば、
真実の悟りの境地 「涅槃」 (nibbāna 燃えさかる煩悩の火を吹き消した状態)に入ることができる。
これが「解脱」 (mokkha) である、涅槃寂静。
つまり「一切皆苦」→「諸行無常」→「諸法無我」 → 「涅槃寂静」の過程をとり、
「四法印」と名づけられて、仏教の真理を表わす四つの要点とされている。
語源から読み解く原始仏教
『苦』
パーリ語で dukkha、サンスクリット語で duhkha である。
これは本来「うまくゆかない」 「…することがむずかしい」という意味に使われる不変詞であり、
それが名詞として用いられると「希望通りにならないこと」から転じて
「苦しみ」「悩み」を意味する言葉になったとさ れている。
英訳でも単なる pain のほかに、 unpleasantness, dissatisfaction, frustration, anxiety, unrest, suffering などさまざまに訳されている。
もともとこの言葉は、〝du (dur)" という語幹があり、
これは「悪い、難しい」 (bad or difficult to bear) を意味し、
これに「空、空所、虚空」 (voidness)を 意味する〝kha〟が結びついている。
したがってこの言葉には苦痛のみならず、世界の無常性(空虚)の自覚をかかえた精神的不安――
その意味での内的「苦」を意味しているとしなければならない。
現象世界と「自我」
諸行無常」のなかの「行」の意味である。
この言語はパーリ語で sańkhāra、 サンスク リット語で samskāra だが、
この原義は samkr (自分で作り出す)ことを意味する。
これは実体のない無常な「現象世界」をつくり上げるが、これを不変な実体的なものととり違えて、
それに執着することでいわゆる「煩悩」(=苦)が生起する仏教では
「我」をなくすことが重要だと誤解されてしまったところもあるが、
「自己」はあくまでも重要なもので、
ブッダの遺言の一つが「私がなくなったあとは、自己と法 を島 (拠りどころ)とせよ」と云っているように、
そこでは我=自己がつねに涅槃に向って精進する主体として厳存している。
ただ「煩悩」のかたまりとしての我欲の我 (ego)は消滅しなければなら ない。
輪廻転生
ブッダがこのように「ニルヴァーナ」を強く求めたのは、
この世 「苦」から抜け出すためであるが、これと関連しているが、もうひとつの大きな目的があった。
それは「輪廻」の世界からの脱出を求めていたことである。
当時は生あるものは、この 世における「業」 (karman) により、
つまりどんなことをなしたかによって、
次の世に六道(地 獄餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を果てしなく繰り返しさまようとされていた。
ブッダは「ニルヴ ァーナ」に入ったものは、永久にこの「輪廻」から脱け出るとした。
四諦と八正道
「八正道」 (authangiko maggo, āryāstango mārgah) である。
(以下術語もパーリ語をさきに、サンスクリット語をあとに併記する。)
「四諦」 (cattari saccami
苦論 (dukkha-sacca, duhkha-satya)
人間の生存は苦であるという真理。
ジッタイ 集諦(samudaya-sacca, samudaya-satya)
人間の苦を集め起すものは渇愛 (tanha) であるという真理。
メッタイ 滅諦 (nirodha-sacca, niroda satya)
渇愛を完全に滅し、したがって苦を滅し去れば、涅槃 に入るという真理。
道諦(magga-sacca, mārga-satya)
この境地に入るには、八正道の方法によるべきである真理。
八正道
「正見」(right insights)
正しい見解、正しく見ることであるが、具体的にはこれは真理の知識、
つまり四諦の々に対する知を意味している。
「正思」 (right volition)
正しい思い、意欲、具体的には、煩悩から離れる、怒らないを傷つけ害することがないこと。
「正語」(right speech)
正しい言葉づかい、具体的にはうそいつわりの言葉、他人をそし
言葉、荒々しい言葉、ふざけた言葉をつかわないこと。
「正業」 (right deeds)
正しい行いを続けること、正しく振舞うことを意味し、具体的には殺生、盗み、邪淫の三つを断つこと。
「正命」 (right livelihood)
正しい生活を維持することを意味し、具体的には「法」にかなった衣・食・住をまもることを意味する。
「正精進」(right efforts)
正しい努力を続けることを意味するが、具体的には悪をしりぞけ、善を成就するようつとめることを意味する。
「正念」(right reflexion)
正しい気づかい、注意、思慮を意味し、具体的には自分の身・受心の観察において、
熱心に気をつけ、気づかい、この世の貪り・憂いを制する。
「正定」(right concentration)
正しい精神統一、集中を意味し、具体的には禅定を行い、涅槃に向うようにする。
十二支縁起
無明(無智 avijjā 潜在的形成力→
(行、 sańkhāra)→
識別作用(識 vińñana) →
名称と形態(名色 nāmarūpa)→
六つの感性領域(六入 salāyatana) →
接触(触 phassa) →
感受 (受 vadanā)→
妄執(渇愛 tanhā) →
執着 (取 upādāna) →
生存 (有 bhāva) →
生まれること(生 jāti) →
老い死ぬこと(老死 ウ jarāmarana)
このように、前のものが次のものを次々に生み出してゆくのである。
これが因果の事実関係か、 条件の論理関係をさすのかの論争がある。
最初に「無明」、つまりこの世の実相についての無智、誤認がある。
それによって我々に内在し ている「潜在的形成力」によりさまざまな思念、現象がつくり出される。
それによってその現象をいろいろと識別することが生じ、
そのことによってさまざまな現象界の名称とかたちが立ち現れる。
それによって六つの感性的器官、眼耳・鼻・舌・身意に対応する六つの感性の入口が出来、
それからその器官との接触ということが起こり、そのことによって感覚的受容ということが生起する。
このことを原因として、渇きのような愛が生じ、
そのことにより、それにとりつくという執着が こり、
そのことにより生存が生じ、そこから老いと死が続くことになる、ということである。
前から後にたどるのが順観であり、逆にたどるのが逆観である。
したがってこの一二支縁起のあり方を順観し た後に、
逆観によってたどってゆけば、結局「老死」という人生の根本苦の究極的原因は
「無明」 にあるということになる。
ゆえにブッダの目指した「苦」の克服は、「無明」から抜け出て、明智 (vijjā)をもつことにほかならない。
この明智は、ほかならぬ「無常」の認識である。云いかえれば、
この世の現象はすべて「空」 (suńña, sūnya) であるということである。
それはやがて三世紀の龍樹 (Nāgārjuna) にいたれば、「空」は、この無常であり実体のない 3 「縁起」そのものであると断言される(空=縁起)。
一二支縁起のみならず、もっと広くあらゆるものが相関し合っているという「相依性」が強調され、
意味が拡大されている。しかしこの考えの原点は、すでに原仏教に根差しているということは間違いない。
原仏教には、この縁起説のように、人生全体、
この世のあり方全体を見渡して通観観察すると いう「観」 という立場が基底にある。
これは神からの啓示を基本とする一神教とは根本的に異なった、仏教の特徴と云ってよい。
仏教は他の何ものにもよらず、この世の 「観」に徹する「現実」主義なのである。
しかし「唯物論」ではない。
仏教における慈愛『MERCY』
仏教にも「他人を自己と同様に扱うべし」というのであるが、
この「自他不二」の思想は、それは窮極的に「空」の思想から出てくる。
この現実世界は何か実体的なもの (sāra) があるのではなく、
すべて縁起によって生ずる無常なものであるという洞察から、
自己の執着を捨て去った、自他の区別を超えた慈悲の行為も可能となる。
「空」の思想を前提とするがゆえに、そこに「無量の慈愛」 (mettā appamāna) が生起する。
つまり「空」→「無執着」→「無量慈愛」→「利他」という道を進むのである。念が生み出される。
そして「慈悲」がまさに「空」によっていることを証したのは、ふたたび龍樹であった。
仏教における「平等」の思想も、深いところで「空」につらなる。「寛容」も同様である。
仏教における「空」は、決して「からっぽ」ではなく、
すべては諸行無常の現実を直視し、それに対する執着 から生ずる苦から脱するため、
縁起即空という根本事実を観ずることによって、それが反転してそ こに我執にとらわれない 「慈悲」「平等」「寛容」という、現代世界がまさに必要としている、優れ 精神的遺産を残した。それがブッダの精神革命である。
考察
内観的かつ観察的な現実主義だが、 唯物的ではない。
宗教は発生時点では個人レベルで発生する。つまり個人の人格と、地理、政治、家庭が密接に連携する。変数が比較的少ないのでわかりやすいかも。経済や政治のマクロな単位が関わると複雑になる。
ブッタと孔子比較
彼岸的P3 此岸的
ブッダの仏教では、究極的に達せんとしているのは「涅槃」であり、
この世の実践を 重視するとはいえ、現世を超えた「彼岸的なるもの」 を目指している。
これに対し、孔子の儒教は端的にこの世の実践原理、 「道」(tao) を求めて
「此岸的なるもの」 (Diesseits)にとどまり、現世の行動規準をうち立てようとする。
そこにはこの世を超えるという視点はない。
救済 と 処世
ブッダの仏教の目指すところは、何よりもまずこの世の「苦」からの救済であった。
ところが孔子の儒教で 目指したのは救済ではなく、より良き処世の道の探究である。
理想
ブッダの仏教では、「法」を悟った「覚者」 (buddha、つまり「阿羅漢」 (arhat) となること。
これに対し、孔子の儒教では道を修めた士身分のもの、
つまり「君子」 (junzi)となる ことが理想である。
ここに両者において求められる理想像が明らかに異なっている。
無常と天道
仏教は、無常観があらゆるものの基本 になっているが、孔子の儒教ではこうした無常観はなく、
むしろ周代から確固として 伝えられると信じた「天道」という不変なものが前提された。
法と礼
ブッダの仏教では、「無常」を主張するとともに、 「法」という不変のきまりのあることを認める。
否むしろ「無常」のなかにこそ、この「法」の構造を見て、人間の行うべき根本的なものであった。
またさらに仏教の「法」は、云わば宇宙的なる「きまり」として、あらゆるものに妥当する。
この点で 前者の「宇宙中心」(生ある存在一般)と後者の人間中心との差がある。
慈悲
前者は「空」の認識を前提にした一般性をもっているが
後者は家族、朋友、国家のような個別的人間関係をもとにしてい る。
ともに他者に対する「愛」と表現できる面をもつが、その発する基盤は異なっている。
悟りと徳
ブッダの仏教では、出世間的な悟りを得ることが究極的に求めるものであるのに対し、
孔子の儒教では、修身・斉家・治国・平天下を実現する此の世的な徳の完成こそ求められる。
瞑想的・心直觀的
仏教では、「悟り」にいたるためにきわめて瞑想的な思弁を行い、
あるときはきわめて論理的な因果関係(縁起)の細かな考察に入るが、
孔子の儒教ではそのような理窟はほとんどなく、 処世の実践から来る直観的洞察が表明されている。