コードと記号
コードと記号
。‘コード’という概念は、記号論では基本的なものである。ソシュールは言語の全体にわたるコードを取り上げたが、勿論、記号は単独で意味を持つものでなく、互いに関連させて理解される時のみ、意味を持つことを強調している。テクストの生成や解釈がコードの存在やコミュニケーションのための慣例に依存することを強調したのは、もう一人の言語学者であり構造主義者のローマン・ヤコブソンである((Jakobson 1971))。記号の意味は、それが置かれているコードに依存するので、コードは、記号が意味を持つ枠組を与える。まさに、もし記号がコードの中で機能しなければ、記号に何らかの資格を認めることができない。さらに、もし記号表現とその記号内容の関係が恣意的であるならば、記号の慣例的な意味を理解するには、適当な集合の慣例をよく知っていなければならないというのは明白である。テクストを読むことは、それを適切な‘コード’に結び付けることを含む。
我々の周囲を取り巻く日常世界の認識さえ、コードを含んでいると主張する研究者もいる。Fredric Jamesonは、‘全ての認識システムが、本来的に言語である’と宣言している(Jameson 1972, 152)。デリダが言っているように、認識は常に表現である。‘認識は、世界を心の中で再現できる類像的記号に、コード化することに依っている。しかし、明確な同一性の力は、巨大である。我々は“心の目”で見た世界をコード化された絵でなく、世界それ自身だと思いたがる’(Nichols 1981, 11-12)。
カッコ付意識
Bracketed Perception 通常認識
Normal Perception
制限された視界、楕円形、横 約180°、縦 150° 制限されない視界
焦点は1点に対して明確であり、周辺に向かうにつれ、徐々にぼやけていく(焦点の明確さは、その光が、形状と色に対して最高の感度を持つ網膜の中心部分(fovea)に注ぐ空間に対応している)) 焦点は、至る所、明確である
平行線が収束するように見える:見る人から向こうに伸びている長方形の面の横方向の側面は収束しているように見える 平行線は収束せずに、延びる:見る人から向こうに伸びて いる長方形の面の横方向の側面は平行を保つ
頭を動かすと、対象の形は変形して見える 頭を動かしても、対象の形は変わらない
目に見える空間は奥行きを欠く 目に見える空間が全体に奥行きを欠くことはない
パターンと感覚、面、辺そして勾配の世界 慣れ親しんだ対象と意味の世界/FONT>
コードという慣例は、記号論における社会的次元を表す:コードは、その環境の利用者にとって慣れ親しんだ一群の慣例であり、それは広い文化的枠組の中で作用する。まさに、スチュアート・ホール(Stuart Hall)が言っているように、‘コードの作用なしには、理解できる言説はない’(Hall 1980, 131)。社会自体が、そのような意味システムに依存している。
コードは、単にコミュニケーションという‘慣例’ではなく、ある領域で作用する互いに関係する複数の慣例からなる手続き的システムである。コードは、記号を、記号表現と記号内容を相関させる意味のあるシステムへ組織化する。コードは、個々の独立したテクストを超越し、テクスト群を理解可能な枠組の中で結び付ける。Stephen Heathは、‘あらゆるコードはシステムであるが、あらゆるシステムがコードという訳ではない’と記している(Heath 1981, 130)。また、彼は次のようにも加えている。‘コードというのは、首尾一貫性、同質性、その体系で分類され、メッセージの異種性に出会った場合は、幾つかのコードを横断して分節される’(同上, p.129)。
コードは、テクストの作成者と解釈者、双方にとって理解のための枠組となる。テクストを作成する場合、我々が習熟しているコードに沿って、記号を選びそして組み合わせる。‘それにより、他の人にそれを読む時、生成されるであろう意味の範囲を制限する’ (Turner 1992, 17)。コードは現象を簡単化し、経験を容易に伝達できるようにする(Gombrich 1982, 35)。テクストを読む時には、適当と思われるコードを参照しながら、記号を解釈する。通常、適切なコードは明白であり、あらゆる種類の文脈的糸口から‘過度に決定される’。テクストの中の記号は、それを解釈するために適したコードへの糸口を具現していると考えられる。ピエール・ギローは、‘絵画の枠や本のカバーは、コードの本質を強調する;美術作品のタイトルは、メッセージの内容よりも採用されたコードを指している場合が多い’(Guiraud 1975, 9)。
社会的コード
[広い意味では、全ての記号論的コードは‘社会的コードである]
言葉の言語 :音韻論、統語論、語句、韻律そして近接言語の副コード;
身体のコード :身体の接触、接近、身体的方位(physical orientation)、容姿、表情、注視、うなづき、身振りそして姿勢;
生活のコード(commodity codes) :流行、衣服、自動車;
振る舞いのコード: 儀典、儀礼、役割演技、娯楽。
テクスト的コード(Textual codes)
科学的コード,:数学を含む;
美術的コード(aesthetic codes) :種々の表現の技術の中にある(詩、ドラマ、絵画、彫刻、音楽他)-古典主義、ローマン主義、現実主義を含む;
類型的、修辞的そして文体上のコード:物語(筋立て、人物、行為、対話、道具立て他)、説明、論説等
マスメディアコード:写真、テレビ、映画、ラジオ、新聞そして雑誌のコード、それぞれ技術的そして慣例的なもの(型を含む)を含む。
解釈上のコード
[記号論的コードと同じく、これらについてはあまり同意が得られていない]
認識上のコード:たとえば、視覚認識のコード(Hall 1980, 132; Nichols 1981, 11ff; Eco 1982) (このコードは意図的なコミュニケーションを仮定していないことに注意);
思想的コード: もっと広く言えば、これらはテクストの‘エンコーディング’や‘デコーディング’のためのコードを含む -支配的(または‘覇権をにぎる’)、譲渡されたまたは反対のものであるかもしれない(Hall 1980; Morley 1980)。もっと明確に言えば、‘主義’を挙げることが出来るかもしれない。例えば、個人主義、民主主義、女権主義、民族主義、物質主義、資本主義、進歩主義、保守主義、社会主義、客観主義、消費主義、そして大衆主義;(しかし、 全ての コードは思想的であると解すことができることに注意)。
コードに関するこれら3種類のタイプは、テクストの解釈者が必要とする3つのタイプの知識に広く対応している、つまり、以下の知識である。
1.世界(社会的知識);
2.媒体と様式(テクストに関する知識);
3.(1)と(2)の関係(様相の判定)。
文化的実践を研究する時、記号論者は、文化的グループの成員にとって意味を持つ対象や動作を記号として扱い、その文化の中での意味の生成の下に潜むコードという規則や慣例を明確にしようとする。そのようなコードを理解すると、そのコードが適切に作用するためのコード間の関係や文脈が、個々の文化の成員にとって意味することの1部分となる。Marcel Danesiは、‘文化は、1種の“マクロコード”として定義でき、グループの個人が実在を理解するために慣例的に用いる種々のコードにより構成される’と論じている((Danesi 1994a, 18;また、以下をみよ、Danesi 1999, 29, Nichols 1981, 30-1そしてSturrock 1986, 87)。興味のある読者には、文化間の交流に関するテクストが、文化的コードへの有用なガイドとなる(例えば、Samovar & Porter 1988;Gudykunst & Kim 1992; Scollon & Scollon 1995)。
我々は、生来の言語が敷いた線に沿って、自然を切り分ける。現象という世界から我々が分離する範疇や型は、全ての観察者にとって明白であるので、見出されることはない;反対に、世界は、我々の心によって組織され、印象の万華鏡的ほとばしりで提供される -そして、これは心の中での言語システムによって、意味を表す。我々は、自然を切り刻み、それを概念として組織化し、我々がそうするように意味に帰する。それは大部分、そのように組織化することへの同意者であるためである -その同意は、我々の話し言葉の共同体で成立し、言語の形で成文化される。もちろん、その同意は暗黙のものであり、言明されないものである、しかし、その用語は絶対的に必須である;我々は、その同意が命ずるデータの組織化や分類に同意しない限り、まったく話すことができない。(Whorf 1956, 213-4;彼が強調していること)