なめ敵における〈敵〉の超克
核と膜
同調する複数の創発システムが、その相対的な大小によって、「あたかも小→大の制御関係に見える」〜
カールシュミットの政治哲学を用いることで、核が敵と味方の不可分性の根拠になってしまった感はある。
シュミットの二元論的政治哲学は批判も多い。
システムの構成要員が、
コミュニティという単位に自覚的な場合に、核的な作為性が起こる。
資源の囲い込みなど。
しかしこれは、核が認知バイアスでしかないことの説明になっている。 単位に自覚的な時に、こうした〈閉じ〉が起こる。
核が核として自覚され立ち現れるのは、主体である我々の認知においてのみ。
自由意思を批判的に論ずる本書の主要な論点とは異なり、〈核〉と〈敵〉の議論が生命原理として不可分性を帯びているように見えてしまう。 一方では自由意思を否定的に論じながら、政治の議論は、自由意思的な認知の恣意性に依存している。
Miyabi.iconだがこのバランスこそが、本書の理想的ながら非常にリアリスティックな視点でもある。
実体験に基づいた〈核の誤認〉、すなわち敵味方の区別や〈壁〉の物質的リアリズムを感じるからこそ、説得力がある。
第11章 敵 11.1 シュミット銀河系
敵と味方を区別するほど、滑らかさに反する認識はないだろう。
〜本書がなめらかな社会を目指すからには、敵と味方をなめらかにするという困難な問題にも挑まねばならない。
『なめらかな社会とその敵』文庫版 p340
☑️再帰するマルコフブランケット
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