精神の生態学
ここに収めたのは、三十五年以上におよぶ多数の独立した論考だが、それらが一体となって提起しているのは、「観念」toesまたは観念の集合体である「精神」 mineについての新しい思考である。これを「精神の生態学」、あるいは「観念の生態学」とよびたいと思う。それはまだ、理論も知識も系統だっていない、新しい科学である。
「観念」といっても、従来そう呼ばれてきたものとは、いささか趣が異なる。本書が全体として打ち出している「観念」というのは、きわめて広範で形式的なものだ。具体的な内容は各論にゆずるとして、まずひとこと、わたしの肩念を述べておきたい。動物の左右対称性という問題も、植物の葉の配列パターンも、二国が競って軍備拡張するプロセスも、愛の進行過程も、あそびの現象も、センテンスの文法構造も、生物進化の謎も、現在危機的な状況を迎えている環境問題も、わたしの提唱する観念の生態学の視点からのみ、理解することができるのだと。
本論が提起するのは生態学的な問題である。観念はどのように相互作用するのか。ある観念を生き続けさせ、別の観念を淘決する自然選択のようなものがあるのだろうか。精神の一領域のなかで、観念が一定限度以上に複雑にならないのは、どのような経済性のはたらきによるのだろうか。精神のシステムまたはサブシステムの安定(生存)のために必要な条件は?
Miyabi.icon観念の淘汰と言う概念、記号化前のミームっぽい
創世神話の基底構造
例として、ユダヤ=キリスト教文化における創世神話の中核部分を取り上げてみよう。それに関わっている、哲学的・科学的な根本問題は何なのか。
はじめに神は、天と地をつくりたもうた。地はかたちなく空しく、淵のおもてはやみであった。そして神の霊が、水のおもてを動いておられた。
そして神が言いたもうた。光あれ。そして光があった。神、光を見て、これを良しとなされ、光を闇と分かちたもうた。
そして神は、光を昼と、やみを夜と名づけたもうた。夕があり朝があり、これがはじめの日であった。
そして神が言いたもうた。水の間におおぞらありて、水と水とを分けへだてよ。そして神はおおぞらをつくり、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水を分かちへだてた。そしておおぞらを天と呼びたもうた。夕があり朝があり、これが二日であった。
そして神が言いたもうた。天の下の水はひとつ所にあつまり、かわいた地よ、現われいでよ。そしてみことばのとおりになった。そして神は、かわいた地を陸と、水のあつまりを海と名づけたもうた。そしてこれを良しと見たもうた。
この十節のとどろくような散文詩から、古代カルデア人の思考の前提あるいは基底観念を、ある程度推測することができる。そして、これはちょっと不気味なことだが、この古代の文書が土台としている考えの多くは、今日の科学の土台にあるものあるいは今日の科学が問題としているもの1と変わりないのだ。
Miyabi.icon近代西洋科学の基底としてのキリスト教
ニューギニアの神話
ニューギニアのイアトムル旅の倉世相記もオわえオのものとに積し出と刀場力としよろしくカオナカー
いう問題を中心に扱っている。それによると、「はじめ」は、ワニのカヴウォクマリが前足も後足もバシャバシャと動かしていて、その攪拌によって、泥が水中に浮遊していた。そこに偉大なる文化英雄ケヴェンブアンガがやってきて、槍でカヴウォクマリを殺した。すると泥が沈殿して、かわいた陸地ができ上がり、ケヴェンブアンガはその陸地に自分の足跡を誇らしげに記した。いわば「これを良し」と宣言したわけである。
経験から帰納的に論を進めるということでいえば、こちらの神話の方が、それに近い。泥はランダムにかき混ぜた場合には水中に浮かび、かき混ぜるのをやめると沈殿するわけだ。そのうえ、イアトムル族の住むのは、陸地と水域との分離が不完全なセピク河の谷あいの広大な湿地帯である。陸地と水域の分化に彼らが関心を示すのは、まったく自然なことである。
Miyabi.iconおもろ
それはともかく、イアトムル族が行き着いた秩序形成の理論は、聖書創世記に書かれているもののほぼ正確な「逆」(換位命題)になっている。イアトムルの思考では、ランダム化の作用が阻止されたときに分化が生じる。聖書では、区分けの行為を行なうものが喚起される。
しかし、物質世界の創造の問題と秩序と分化の問題のあいだに、根底的な分離を設けている点では、どちらの文化も一致している。
二つは換位命題でありつつも、物質世界の創造の問題と秩序と分化の問題のあいだに、根底的な分離を設けている。
ここで、科学と哲学が混然としたこのプリミティブな段階で、その基底観念が経験的なデータから帰納的に導かれたものかどうかという問題に戻るが、その答えはどうも簡単ではないようだ。実体と形式とは別物であるという認識が、帰納的方法から出てくるとは考えにくい。かたちのない、分けられていない物質というものを実際に見たことがある人間などいないわけだし、完全にランダムな出来事に遭遇した人間もいない。「かたちなく空しい」、つまり形式も実体も存在しない宇宙というものが、帰納的に得られたとするなら、それは途方もないーおそらくは誤ったー外挿的推論によったとしか考えられない。
認識前の世界が帰納てきに得られる事なんてない。
1物質の起源と本性の問題。これはまとめて脇にのけられている。
2秩序の起源という問題。こちらはていねいに扱っている。
3このふたつの問題が、分離している。両者を切り離すこと自体誤りであるかもしれないのだが、それはさておくとして、現代科学の基底観念も同じ分離をかかえている点に注目したい。質量およびエネルギー保存の法則と、秩序・負のエントロピー・情報についての法則の間には、いまもつながりが存在していないのだ。
4「秩序」というものが、区分けの問題として見られている。「区分け」というプロセスの本質をなすのは、なんらかの差異が、後の時点で、それとは別の差異を引き起こすということである。黒い玉と白い玉、または大きい玉と小さい玉が混ざっていて、それが区分けされるときには、玉同士の間にある差異に引き続いて、玉の置かれる位置の差異が現われることになる。(あるクラスに属する玉はそちらの袋に、違ったクラスに属する玉はこちらの袋に、といったふうに!そうした現象が起こるためには、なんらかのふるいないしは「閲」ーあるいは最高に優秀なふるいとしての感覚器官が必要だ。とすれば、「創世」における秩序生成の説明に、知覚機能をそなえた存在が登場するというのは、理解できるところである。
5 世界の分類をめぐる謎が、区分けの行為によって説明されている。そしてそのあとから、「名づけ」という、すばらしく人間的な達成がきている。
以上が、この創世神話を構成する要素だが、どうだろう、これがすべて経験から帰納的に引きだされた考えだと言い切れるだろうか。しかもこれを、思考の基底構造を異にする民族の創世神話と比較すると、疑問は一段と強まってくるようなのだ。
Miyabi.icon名付けとそのプロセス
わたしは、行動のデータと科学的・哲学的”基底観念”との間に橋をわたすことに関わってきた。例の精神医学生のクラスでも、そしてまた本書でも、その問題が多くの場合暗黙裡にではあるがー核になっている。
さきほど行動科学における「エネルギー」の比喩的用法について批判したが、それは要するに、行動科学者の多くか、古代から二分されている形式と実体のうちの、誤った片割れの方に橋をかけようとしていることを単純に批判したものにすぎない。エネルギーと質量保存の法則は、形式ではなく実体の世界にかかわるものだ。しかし精神プロセス、観念、コミュニケーション、組織化、差異化、パターン等々は、あくまでも実体ではなく形式にかかわるものである。
基底的な知の全体のうち、形式に関する部分は、サイバネティックスとシステム理論の誕生によって、ここ三十年飛躍的に豊かになってきている。本書が関わるのは、生命と行動に関わる具体的な事実と、パターンと秩序の本性について今日知られていることとの間に架橋する作業である。
★4「熱力学的エントロピー」は物理学の世界に属し、「情報のエントロピー」は情報工学やコミュニケーション理論の世界に属す。
両者を結びつけようとするものは、両方の専門家からうさんくさい目で見られる。「形式・実体・差異」には、両者を統一的に記述しようとするベイトソン自身の試みが含まれている(六〇五-六〇六ページ参照)。
★5ベイトソンは、差異を変換しながらプロセスしていく機構として「精神」というものを考えている。六〇八ページ参照のこと。
★6 知覚される以前の世界が、分類されていると考えることはできない。また、世界がどう分類されるかには、言語と文化が深く絡んでおり、いわば「名づけ」が世界を分類するという面を見逃せない。