第5章ヤン・アスマンーモーセ的区別と宗教的暴力
モーセ的区別
ー九九七年、世界を牽引するエジプト学者の一人ヤン・アスマンは、『エジブト人モーセー)ある記憶
痕跡の解読』と題した挑発的で論争的な著作を発表した。この著作の冒頭はきわめてドラマティックに綴られている。
ある区別を設けよう。その区別を最初の区別と呼ぼう。
最初の区別が設けられる空間を、その区別によって裁断された、あるいは分割された空間と呼ぶ。ショージ・スペンサー!ブラウンの「構築の第一の法則」は、たんに論理的で数学的な構築の空間にしかあてはまらないわけではなさそうだ。それは文化的な構築と区別の空間にも、またそうした区別によって裁断され分割される空間にも驚くほどよくあてはまる。
私がこの本の中で関心を寄せている区別は、ユダヤ教徒と非ュダヤ教徒(Gentiles)、キリスト数徒と非キリスト教徒(pagans)、イスラム教徒と非イスラム教徒(unbelievers)といったいくらか具体的な区別の根底にある、宗教における真と隣との区別である。ひとたび区別が示されれば、その再考、あるいは下位の区別をつけようとする試みには終わりというものがない。我々はキリスト教徒と非キリスト教徒から始めて、カトリックとプロテスタント、カルヴァン派とルター派、ソッツィーニ派と宗教的自由主義者、そして干を越える数の顔似の諸宗派とそれに準じる諸宗派にまで到達する。こうした、文化的もしくは知性的な区別というものは、意義やアイデンティティ、方向づけのみならず、衝突や不寛容、暴かに満ち満ちた世界をも構築するのである。
それゆえ、文化的な意義を失うという危険も顧みずに、その区別を見直すことによって衝突を乗り越えようという試みがつねになされてきた。
宗教における真と偽との区別を「モーセ的区別(Mosaic distinction)」と呼ぼう、伝承はそれをモーセに帰しているのだから。
(Assmann 1997:1, 強調は引用者)
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この区別がモーセによるものではあるとはいえ、彼はその発端ではなかった。その先駆者は紀元前一四世紀に一神教の形式をつくりあげたアクエンアテンであった。私たちは見かけ上の矛盾に出くわす。アクエソアテンは実在の歴史上の人物であって、その記憶が一九世紀のアマナの再発見まで実質的には消し去られていたが、紀元前一四世紀に一時的に世を治めたファラオだということを私たちは知っている。モーセは、しかしながら、記憶の形象である。ヘブライ語聖書の十戒の石板や彼にまつわるいくつかの伝説を別にすれば、彼が存在したというはっきりした歴史的証拠は何一つない。「記憶が文化的な区別や構築の領域のすべてなのだから、我々はアクエンアテン的区別を語るのでなく、モーセ的区別を語ってもよいはずだ。
その区別によって裁断され分割された空間が、西洋の一神教の空間である。それがこの、ヨーロッパ人によって二千年近く住まわれてきた精神的または文化的に構築された空間なのである」(Asmann 1997:2)°
アスマンの著作のタイトルから、エジプト学者として彼はモーセが「実在の」エジプト人であったかどうかという歴史学的な事柄に関心を寄せているのだと思われるかもしれない。少なくとも(カタイオスやマネトの時代にまで遡る長い伝承があって、それによればモーセはユダヤ人ではなく、反抗したエジプト人の神官もしくは高貴な身分の人だったのだという。しかし、モーセの起源やアイデンティティについての歴史学的な問題はアスマンの第一の関心事ではない。むしろ彼は、モーセとエジプトが二〇世紀にいたるまで西洋史の道筋のなかでどのように想起されてきたかということの紆余曲折をたどろうとしている。
彼は自分の問いを「記憶史(mnemohistory)」に貢献するものとして特徴づけている。
「いわゆる歴史とちがって、記憶史は過去それ自体にではなく、思い出される限りでの過去に関心を寄せるものである…••記憶史は歴史学と対立するものではなく、むしろその枝葉であり一分野なのである・・・・・・記憶史はもっぱら記憶の1つまり過去への遡及の産物である歴史の意義や連関という側面に専念するものである…・・・そしてそれは後世の読者によって当てられる光のうちにのみ現れる・•••過去というものは単純に現在によって「受け取られる」のではないのだ。現在というものは過去によって「とり憑かれた」ものであり、過去は現在によってモデルとされ、創作され、創作し直され、再構築されるものなのである」(Assmann 1997:
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第5章 サン・アスマンーモーセ的区別と宗教的力
性史のねらいとするところは文化的記憶の現象として広載を研究することにある。アスマンは、言うまでもなく「記憶は誤りうるし、歪められたり、創作されたり、植えつけられたりする」のだということを理解していた。それゆえ、いわゆる歴史と記憶史とのあいだにはとらえ難い複雑な関係がある。私たちは、実際に何が起こったのかを突き止めるための歴史学的な独自の手続きなしに、ある記憶が歪められているとか虚偽であると主張することはできない。記憶は「客観的な」証拠に照らして確かめられることなしには歴史的な資料としての有効性を認められえない。記憶史はそれ自身で歴史学的な精密さの規範を満たさなければならないが、記憶史家にとっての鍵となる事柄はその記憶が歴史学的に精密かどうかではない。「記憶史家にとって、所与の記憶の「真実」は、その「現実性」のうちにあるほどにはその「事実性」のうちにはないのだ」(Assmann 1997:9)。
モーセ的区別に立ち戻るなら、そこでは何が本当に特徴的なことなのだろうか。煎じ詰めるとすべての宗教は「私たち」と「彼ら」のあいだに区別をつけるのではないだろうか。あらゆる同一性の構築は他なるものをインサイダーとアウトサイダーとを生み出すのではないだろうか。ごく大雑把な意味でこのことは真であるが、しかしアスマンが重視したきわめて重要な要点を見落とすことになる。文化と宗数は同一性を構築するために他者性を生起させるのみならず、翻訳の技術をも発達させる。実際に、古代の多神数は翻訳のさまざまな技術を発展させた。古代世界の多神数的な宗教においては、多様なひとびとが多様な神々を崇拝したが、「誰も他所の神々の実在に異議を唱えたりはしなかった」(Assimann 1997:3)。
たとえばメソポタミアでの神の名を翻訳する試みは、紀元前千年前にまで遡る。モーセ的区別は多神教の諸宗教の世界のうちには端的に存在しなかったのだ。
モーセ的区別は「それ以前のすべてとそれ自身以外のすべてを「異数」として拒能し否定するがゆえに」、新しい宗教の類型!「対抗宗数(counter-religion)」 =を導入する…・・・多神教が、むしろ「宇宙即神論(cosmotheism)」がさまざまな諸文化を相互に透明にし、両立させたのに対して、かの新しい対抗宗教は文化間の翻訳可能性を遮断した。虚なる神々は翻訳されえない」(Assmann 1997:3)
エクソダスという「大きな物語」はモーセ的区別の古典的な源泉である。イスラエルは鮮明にエジプトと対照させられる。エクソダスのストーリーは、たんにイスラエルがエジプトから脱出するという出来事の説明ではない。エクソダスは一つの象徴的なストーリーであり、モーセは象徴的な形象である。イスラエルとエジブトは数多の対立の象徴になっているが、その根本にあるのは、他のすべての虚なる、倒像を崇拝する、多神数の、異教の宗教と、唯一無二の真なる宗教とを隔てるぼっかりと口を開けた深淵なのである。聖書の最初の二つの戒律がこのことを明らかにしている。
汝は私の他に神をもってはならない。
数はいかなる像をも造ってはならない。
端的に言えば、唯一無二の真なる神がいて1他のすべての神々と宗数は虚橋である。偶像崇拝(idolatry)の排斥はュダヤ人の歴史の道筋のうちでより強力なものとなっていった。偶像崇拝は唾棄すべきことである。イスラエル人と「偶像崇拝者」は互いを憎んだ。「ユダヤ人が像崇拝を精神的な異常、狂気の一種だと表現するのに対して、エジブト人は偶像破壊を、非常に伝染しやすく身体を醜くする病の観念とびつける。病を表す語を用いた表現はジークムント・プロイトの時代までモーセ的区別についての言説の典型であり続けている」(Assmann 1997:5)°モーセ的区別を基礎にもつ一神教的な宗数は革命的である。
一神論の宗教は古いものと新しいものとの関係を漸進的変化においてではなく革命的変化において組み立てより古いすべての他の宗教を「異教」もしくは「邪神崇拝」として拒絶する。一神数はいつも対抗宗教として登場するのだ。偶像崇拝の誤りから一神教の真理へとつながるいかなる自然な、または漸進的な道筋もない。
この真理は啓示という手段をもって外側からのみやってくることができる。エクソダスの物語は一神数と“像崇拝とのあいだの宗教的な対立の時間的な意味を強調する。「エジブト」は「偶像崇拝」の側に立つのみならず、拒絶される過去の側に立っている・•・イスラエルが新しいものを代表するのに対してエジプトは古いものを代表する。その二つの国の地理的な境界は時間的な意味づけを引き受けており、人類の歴史のうちの二つの時代を象徴化してしまっているのである。
(Assmann 1997:7)
私たちはなぜアスマンがモーセ的区別を1西洋の一神教の基礎をー「殺人的な区別(murderous distinction)」(Assmann 1997:6)と特徴づけたのかを理解し始めている。偶像の暴力的な破壊は、虚の宗教に対する全面的な拒絶の象徴になっているのである。
アスマンの探究の背景にあるものを完全に把握するためには、文化的記憶についての彼の理解をさらに特に見ていく必要がある。アスマンは「政宗の記憶(memory of conversion)」と「脱構築的な記憶(deconstructive memory)」とを区別している。「エジプトを想起することは二つの決定的に異なる機能の発である。第一に、それは真の宗数と像拝との区別の支持である。我々はこの記憶の機能を「改宗の記憶」と呼ぶことができる」(Assmann 1997:7)®エダヤ人は彼らの式的な記憶のうちに、エジプトがらの解放を思い起こすことを義務づけられている。想起することは偶像崇拝に対するたゆむことなき否認の営みであり、そして想起は唯一無二の神の真なる宗教への改宗を裏づけるのである。ヘプライ語聖書とユダヤの儀式における数多の訓戒はモーセ的区別の想起(zakhor)を補強するのである。
しかし記憶には逆の機能がある。エジブトを想起することはモーセ的区別を問いに付すという目的をも果たしうる。これがアスマンの言う「脱構築的な記憶」である。それは改宗の記憶に対しての対抗記憶(counter-memory)である。「もし宗教的な真理の空間が「真理のうちにあるイスラエル」と「虚橋のうちにあるエジプト」とのあいだの区別によって構成されているならば、エジブトの真理のどんな発見も必然的にモーセ的区別を無効化し、この区別によって分離されていた空間も脱構築されるのだ」(Assmann
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1997:8)°アスマンが脱構築的な記憶について語っているとき、彼は何か簡明直截なことを言わんとしている。脱構築的な記憶は、問いかけ、挑戦し、そして究極的には伝統的な二分法の土台を掘り崩すような類の記憶である。「改宗の記憶」と「脱構築的な記憶」とのあいだのこの区別は、なぜ彼がみずからの著作を『エジプト人モーセ』と名づけたのかを明らかにする。
記憶の形象として、エジブト人モーセはヘブライ人モーセや聖書のモーセとは決定的に異なっている。ヘプライ人モーセが1イスラェル=真ということとエジプト=ということとのあいだの1敵対と確執の人格化であるのに対して、この対立のあいだにエジプト人モーセは橋を架ける。いくつかの点で彼はエクソダス神話の転倒を、少なくともその修正を具現している。ヘブライ人モーセはエジブトから解放した数世主であり、それゆえエジプトフォビアの象徴である。聖書のヘブライ人モーセは西洋の伝統のうちにエジプトのイメージを生き生きとしたまま保存してきたが、それは西洋的な観念とは完全に正反対のもので、専制政治の、不遜さの、魔術の、けだものを祟める、そして無像を崇拝する国としてのエジブトのイメージである。聖書のモーセがそーセ的区別を体現している一方で、エジブト人モーセはその調停役を具象化する。彼は人類史におけるエジブトの積極的な意義の体現なのである。
(Assmann 1997: 11)
『エジプト人モーセ』のストーリーはモーセ的区別の脱構築|土台の掘り崩しーである。アスマンは抑え込まれた歴史とアクエンアテンの革命的な対抗宗教から帰結したトラウマの抑圧された記憶とを探究し、エジプト人モーセについての伝説を紀元前三世紀前半にエジプトの歴史を記したエジプトの神官マネトにまで遡って跡づけている。他の幾人かの古代の「歴史家」は(エジプト人であれ非エジプト人であれ)、この伝説のさまざまなバージョンを詳述しているが、一神教的な対抗宗教としてのエジプト人モーセの宗教の再構築にきわめて近づいていたのはストラボンであった。ストラボンの「モーセの描写は「洗神論者か、より最近の言葉づかいに従うなら、スピノザ主義者」だと一八世紀に認識されえていた」
(Assmann 1997:38)。ストラボンはまたフロイトの『モーセと一神教』におけるモーセの起源と同一性とに最も接近していた。
ストラボンによれば、エジプトの宗数に不満を抱いていたモーセという名のエジプト人神官が、新しい打ち立てようと決意して追能者とともに目を楽れバレスチナへと向かったのだという。彼は動物の姿をした神々に代表されるエジプトの伝抗を拒絶した。彼の宗教はいかなる姿形によっても表されない産一の神理なるものの認識によって成り立つのだ。
「我々すべてを、大地や海を、我々が呼ぶところの天国を、世界と諸事物の本質を包含するーこのただ一つの存在が神である」。この神に達する唯一の道は徳と正義のうちに生きることである。
要するに、モーセがエジプトの神官であったと露骨に主張したストラポンは、偶像崇拝を徹底的に捨て去った対抗宗教として一神教を特徴づけたのである。こうした、エジプト人モーセが事実として真であるといらどんな説明にも、はっきりした歴史的な証拠は存在しない(ヘブライ人モーセの存在についてのいかなる明白な証拠も1聖書の物語を除いては1存在しないのと同様に)。しかし記憶史において主要な事柄は、何が記録されているかということの事実的な真理ではなく、どのように、そしてなぜ諸々の人物や諸々の出来事が際立った仕方で記憶に残っているのかである
アスマンによるエジブト人モーセについての古代の「歴史的な」描写は彼の主要な問いかけの背景としての役割を果たす。一七世紀に始まったモーセ/エジプトをめぐる言説はフロイトの『モーセと一神教』で頂点に達するーモーも的区別の脱構築と撤廃である。