空観はニヒリズムか
虚無論者と解された中観派
Miyabi.icon仏教外からの評価を外観する
Miyabi.iconなんか草
中観派を評して、ベルギーのL・ドウ・ラ・ヴァレ・プーサン、ドイツのP・ドイセン、インドのS・ダスグプタらの学者は虚無主義(Nihilism)であるといい、ドイツのM・ワレーザー、イギリスのA・B・キースなどは否定主義(Negativism)であるといい、ドイツのO・フランケはさらに最初期の仏教をも含めて否定主義であると主張する。これらの解釈に対し、ロシアのTh・スチェルバツキーはむしろ相対主義(Relativism)であると批評し、フランスのR・グルッセーがこれに賛意を表している。 Miyabi.icon世俗的な中観派の印象としてはこのあたりであろうか。
また出発途上の記号論理学に大いに興味をもっていたポーランドのS・シャイエルは、「中観派は哲学史上最も徹底した唯名論者(der radikaiste Nominalist)である」と批評した。さらに中観派を幻影説(do.cetism)ときめつける学者(たとえば姉崎正治博士)もあり、全く諸説紛々として帰一するところを知らぬ状態である。 Miyabi.icon
面白い。現代になって虚無主義や否定主義の印象がついたのではなく、古代インドからそのような印象だったのか。
reira.iconへー
中論
有・無を排斥する『中
ところがこのような解釈はきわめて困難な問題に遭遇する。『中論』はけっして「無」を説いているのではない。その理由の一つとして『中論』の本文である詩句の中において有と無との二つの極端(二辺)を排斥している、という事実を示しうる(たとえば、第五章・第八詩、第九章・第一二詩、第一五章・第六詩、第七詩、第一〇詩、第二三章・第三詩、第二四詩、第二五詩)。
Miyabi.icon有無の断見があるから虚無がせいりつするのである
仏教成立当初の思想と『中編』
『中論」は終始、有部・経部・子部・正量部などの諸学派を攻撃し、その教理を批判して、これらの諸派と截然たる対立を示している。この事実をみて近代の研究者は、たいてい、大乗仏教は、従来の仏教とは全く異なったものであると解している。 Miyabi.iconこれもまた一般的な西洋の見方の一つだろう。
それは大多数の西洋の学者の意見であり、一般に大乗仏教は「仏教」(Buddhism)ではあるかもしれないが、「ブッダ(Buddha)の教え」とは非常に異なったものである、と考えられている。しかしながら「中論』を始めとし、一般に大乗仏教の経典や論書はみな自己の説がブッダの真意を伝えているものであると説き、しかも自説の存在理由をブッダの権威の下に力強い確信をもって主張している。
『般若経』と『中論』
なお「中論』の思想の歴史的連関に関してもう一つの問題に注目したい。古来『中論』はもっぱら『般若経』の思想を闡明するものであるといわれている。中国で空の思想を体系し、三論宗を大成した中国の嘉祥大師吉蔵(五四九ー六二三年)も「中論』が『般若経』にあいている理由として六つの項目を挙げて説明している(「中講」巻一末)。さらにインドの諸証釈についてみても、「無長論」「青、」「プラサンナパダー」「般若灯論釈』などみな『般若経』をたびたび引用しているし、ことに『般若燈論釈』の最初では、『中論』が『般若経』に依拠すると書いている。またアサンガ(無者、三一〇ころー三九〇年ころ)は『中論』が般若思想の入門書であるとみて、いわゆる「順中論』(詳しくいえば、『順中論義入大般若波羅蜜経初品法門』)二巻を書いている。故に「中論』の思想が『般若経』に基づいていることは疑いないと思う。