現代思想入門
デリダ
概念の脱構築
同一性の脱構築
差異の脱構築
仮固定的な側面と差異
二項対立
パロール
エクリチュール
解釈項に恣意性がゆだねられる
〈誤配〉
二項対立によるテキスト分解
プラスとマイナスに振り分け、本当にこのマイナスは絶対だろうか?と問う。
二項対立の脱構築
<(……)古典的哲学におけるような対立においては、われわれはなんらかの差し向かいといった平和的共存にかかわりあっているのではなく、ある暴力的な位階序列づけにかかわっている(……)。当該の二項のうち一方が他方を(価値論的に、論理的に、等々)支配し、高位を占めているのです。そういう対立を脱構築するとは、まずある一定の時点で、そうした位階序列を転倒させることです。
(ジャック・デリダ『ポジシオン』高橋允昭訳、青土社、
脱構築の手続きは次のように進みます。 ①まず、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。しかし、ただ逆転させるわけではありません。 ②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。
③そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。
パルマコン(毒でも薬でもあるもの
非本質的なものの重要性
本質の脱構築
本質主義批判
例えば男性主義的な「強さ」という本質の脱構築は、弱さや受動性という女性性で脱構築を試みることもある。
ジュディスバトラーのジェンダートラブル
再現性と現前性
直接的な現前性、本質的なもの
パロール
間接的な再現前、非本質的
エクリチュール
パロールはじかに真意を伝える、エクリチュールは間接的だから誤読される。
レヴィナス 全体性と無限
レヴィナスは他者を無限と捉えた
デリダは他者性の内包を考えた
例
自然×人工の二項対立
人工で自然でもない他者性
実際には極端な区分が必要になるが郷愁や未練がある、
差異の重要性と同一性の同居
パロールとエクリチュールの同居
プラグマティズムの格率
ドゥルーズ
主著
差異と反復
差異
同一性と差異において、差異が先立つ
同一性は「生成した原理」である。
Miyabi.iconめっちゃ予測符号化じゃん。
同一性は最初のものではないということ、同一性はなるほど原理として存在するが、ただし二次的な原理として、生成した原理として存在するということ、要するに同一性は《異なるもの》の回りをまわっているということ、これこそが、差異にそれ本来の概念の可能性を開いてやるコペルニクス的転回の本性なのであって、この転回からすれば、差異は、あらかじめ同一的なものとして定立された概念一般の支配下にとどまっているわけがないのである。 (ドゥルーズ『差異と反復』上、財津理訳、河出文庫、二〇〇七年、一二一─一二二
意味の論理学
入門書の紹介ですが、まず、芳川泰久・堀千晶『ドゥルーズ キーワード89』
存在の脱構築
バブル期にはやった
不景気の時代
存在論的、郵便的 デリダ論
東浩紀
リゾーム
根茎
網
リゾームだけだとコミュニケーションが金銭や国家にとりこまれるので、非-コミュニケーションが必要
当然矛盾するがバランス
フーコー
支配と被支配
被支配に受動性があるのではないか
自己循環作用
権力は下から来るということ。すなわち、権力の関係の原理には、一般的な母型として、支配する者と支配される者という二項的かつ総体的な対立はない。その二項対立が上から下へ、ますます局限された集団へと及んで、ついに社会体の深部にまで至るといった運動もないのである。むしろ次のように想定すべきなのだ、すなわち生産の機関、家族、局限された集団、諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっているのだと。
(ミシェル・フーコー『性の歴史1知への意志』渡辺守章訳、新潮社、一九八六年、ニー
1一二二頁)
無数の力関係としての、権力
フーコーの問題意識
Miyabi.icon権力/脱権力、あるいは支配と被支配において、この二項対立における逃走線が難しいのではなく、こうした構造からの超出が難しいのだ。
正常と異常の脱構築
Miyabi.iconマイノリティ、マジョリティを文脈依存性の観点から脱構築した。
包摂はマジョリティの観点に寄せて行われる
千葉雅也
現代ならば、発達障害を考えるとわかりやすいでしょう。昔だったら「風変わりな子」とか「こだわりがある子」と思われていた人たちが、「コミュニケーションの障害がある」、「人の心をうまく先読みできない」などと捉えられるようになりました。つまり、マジョリティの社会のなかでうまくサバイブできないと価値づけされ、括られるわけです。
そうなって初めて、受けられるべきケアが受けられるようになったのだからよかったと多くの人は思うのかもしれませんが、しかしそれは、主流派の世界のなかで主流派のやり方に合わせて生きていくことが前提になっている。ここに注意するべきです。マジョリティとは異質な人をマイナスに見る価値観が前提になっているのに、マジョリティに合わせるためのケアが受けられてよかったねというのは倫理的におかしい気がしませんか?現に社会には規範があるのだから、適応のためのサポートは事実上必要と言わざるをえないにせよ、もっと多様にバラバラに生きて構わないのだったら、発達障害と言われる状態はそんなに問題視するものだろうかとも思えないでしょうか。
Miyabi.icon雅也😭
不利だとされるカテゴリーが不利なのはそもそも有利なカテゴリーが前提としてあるから。
カテゴリー化、隔離、治療
近代的クリーン化
フーコーからすれば、統治が巧妙になっている。
Miyabi.iconあらゆる物を符号化して縛って行くことは、語の意味を決定している主流派に、己の運命がゆだねられるということでもある。
権力の三つのあり方
王権
都度行使される罰による権力
常に縛るわけではなく、ある意味で開いてあるとも言える
規律訓練
パナプティコン的
自律を促す反面、常に何らかの則度で監視的に縛る監視が見えなくなる。
自己監視状態
近代においては、統治者や権力者が見えなくなる。
自己抑制とプライバシーの発生
キリスト教における自己抑制も関連
生政治
即物的コントロール
近現代社会においては、規律訓練と生政治が両輪で動いている
内面の問題ではなく、(紅白とか自由とか。指標的、物質的な測度に基づく政治
人間の逸脱を整理することで秩序を生み出す統治は、人間を動物がすることに他ならない。Miyabi.icon規定のインタラクションに逸脱を押し込める行為
人間の再動物化
Miyabi.iconマッチングアプリ化、汎システム化
多様性を整理しない社会によって、ドゥルーズの逃走線を示した
異常者という不安
いいアイデンティティと悪いアイデンティティの出現と成立
ニーチェ
『悲劇の誕生』
デュオニソス的
カオス
アポロン的
秩序
形質と資料と対応している
無意識と意識>
無意識という偶然的構造
世界の物語化
精神分析の知見によれば、まさにそのような物語的理由づけによって症状が固定化されているのです。むしろ、無意識のなかで要素同士がどういう関係づけにあるかを脱意味的に構造分析することで初めて、症状が解きほぐされることになるのです。
とは、諸々の偶然的な出来事の集まりなのです。
まとめるならば、ディオニュソス的なものとは抑圧された無意識であり、それは物語的意味の下でうごめいているリズミカルな出来事の群れだということです。それが、下部構造なのです。、
近代的有限性
カント物自体
認知のフィルター、OSとしての超越論的
感性
知覚
悟性
意味付け
理性
物自体に向かう、目指す
近代が本格化する転換期が一八世紀末です。それ以前には、世界の事物がどうであるかをじかに語ることができるような空間がありました。この対比をフーコーの『言葉と物』という本が論じています。
以下、『言葉と物』の説明です。この部分はフーコー論の続きだと思ってください。
一七から一八世紀、フーコーの言い方では「古典主義時代」は、思考に対する事物の現れ、すなわち「表象」と、事物それ自体とを区別することはなく、事物を思考によってじかに分類整理できる、という時代でした。〜このときには、表象と事物は一致しているのかズレているのかという問題意識はなかったのです。
言葉と物自体は接地しないため、仮象と、それに向かう理性が重要だった ところがその後、近代化の進展につれて、表象の背後には、事物がそのようにできている深い原因がある、表象を見るだけではわからない原因を解明しよう、という知の運動が始まります。たとえば、生物学ができる以前に、古典主義時代には「博物学」がありましたが、それは動植物の特徴を分類盤理するだけでした。その後、今の我々も知っている生物学の段階に入っていくと、生命という抽象的なものを想定して、生命の「機能」がさまざまな身体器官でどう実現されているかを研究するようになる。機能とは、目に見えるものではありません。機能自体は表象としては見えない、抽象的に考えるものです。そのように、表象の背後に抽象的なレベルでの原因を探ることで、原因がそこに位置する事物「それ自体」が、表象から分離されていくのです。
表象から意味へ
表象とプロセスの二重性
Miyabi.icon遺伝子と表現系
表象空間から解放され、自身の謎めいた厚みのなかに引きこもることによって、事物は、認識に対して決して完全には与えられないものとなる。そして、そのように表象から一歩退いた場所に措定された事物が、まさにそのことによって、ありとあらゆる認識の可能性の条件として自らを差し出すことになる。自らを示すと同時に隠す客体、決して完全には客体化されえぬ客体こそが、「自らを表象の統一性の基礎として示す」ということであり、ここから、我々は、そうした基礎への到達を目指す「終わりのない任務」へと呼び求められるのである。
(慎改康之『ミシェル・フーコーー自己から脱け出すための哲学』岩波新書、二〇一九年、七五頁)
事物 認識に対して完全にはあたえられないもの
認識の可能性の条件が事物自他に備わる
カントの『純粋理性批判』は、新たなる有限者=近代的人間のあり方 フーコーの「言葉と物」
カントも含めて知の近代化とは有限性の主題化にほかならない、ということを明示した 「真理に向かおうとするが、真理への到達不可能性によって牽引され続ける」ということです。
人間の思考は、つねに闇を抱え込むようになった。
思考において思考を逃れるものが生じた。
人間自身が内に含むようになったその闇
形相ないしイデアに必ずしも従わないような質料、マテリアルの転身した姿なのです。 Miyabi.icon
物自体に向かう理性の働きにおいて、下部構造
マタギドライヴ確率論的世界では本質が多様なにの、それぞれの資本主義という体系にに還元されるので歪む。 多自然多元主義ではなく単一自然多元主義だからか
確率論×確率論で、功利主義を超克しないといけない
マルクス主義では、「あなたも資本家になれる」ではなく、すべての人がこの構造から解放されるにはどうするか、すべての人が自分自身に力を取り戻すにはどうするかを考えようとするのです。それが「共産主義」と呼ばれるものなのですが、いまだそれは実現されていません(歴史上の社会主義国家はそれを試みて失敗しました)。
「意識が高い」と通常言われるような意識の下に抑圧され、無意識レベルに留まっている自分本来の力、いわばディオニュソス的なものをいかに取り戻し、それにどうやって搾取構造とは異なる独自の秩序を与えるか。
これが後期フーコーにおける自分で自分のことを秩序化するという「自己への配慮」の話につながります。
カオス、デュオニソス的なものの回復
これをやるための下部構造の超出としてのマルクス
異なる秩序化による超出
自己への配慮
方法論としての精神分析、
無意識の文脈化と秩序化
そしてそれは自分がなぜ今このような人間なのかということを精神分析的に追求し、偶然の出会いへと遡っていくことにつながっています。すなわち、同じ土、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見することだと思うのです。こうして、みずからの力を取り戻すという実践的課題において、ニーチェとフロイトとマルクスが合流することになるのです。
確率論的世界
ベイズ脳モデルとにおける理性
モデルとしての下部構造
モデルの脱分脈化
ランダウォーク的な学習
ファインチューニング
純粋理性批判
「純粋理性批判」(Critique of Pure Reason)は、18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントによって書かれた哲学の古典です。この著作は、我々が世界を認識する方法に関する問いに答えるために、知識の限界と条件を探求します。カントは、人間の認識が感覚的経験と内的な構造(カテゴリー)によって形成されると考えました。彼の理論では、我々の知識は現象(感覚経験)に限定され、物自体(ヌーメノン)は知り得ないとされます。