無我
無我とは諸法実相
仏教の伝統的観念であるへ無我>は、「中論』ではかなり独自の特徴的な意味に理解されている。
仏教の根本思想の一つといわれている「無我」の意義を「中論』は第一八章(アートマンの考察)において説いている。『無畏論』によれば、第一八章の初めに、「問うていわく、真理の特質は何であるか。どのようなしかたで真理は考察されることになるのであろうか。答えていわく、 我(アートマン)とわがもの(数所)とを離れることが、真理の特質なのである。前に述べたような道理によって考察したならば、真理を理解することになるであろう。もしも「どのようなしかたで』と問うならば、答えていわく、・・・・・・」といって、火に「中論』のもとの詩句を引いて説明している。故に第一八章における無我の説明は、諸法実相(事物の真相)を明らかにするためになされていることがわかる
〜さらに
第三詩は、
「くわがもの>という観念を離れ、自我意識を離れたものなるものは存在しない。〈わがもの〉という観念を離れ、自我意識を離れたものなるものを見る者は、〔実は〕見ないのであるいう。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから、我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は、実は真理を見ていないのである
チャンドラキールティの註解によると、自我意識が無いこと>へわがもの>という観念を離れたことという独立な原理または実体を考えるならば、実は事物の真相(諸法実相)を見ないこととなるという意味であるという(『プラサンナパダー』三四八ページ参照)。
ピンガラの註釈には、
「いま聖人には我と我所(わがもの)と無きが故に、諸の頃悩もまた滅す。諸の順悩が滅するが故に、能く、諸法実相を見る」(大正蔵、三〇巻、二四ページ下)
という説明がみえている。故に『中論』が<無我><無我所>を説くのも、上述の諸註釈の文からみると、結局諸法実相を明かすためであるといいうる。また『大智度論』第七四巻にも諸法実相とは我および我所の定まった特質の不可得なることであると説明され、空と同一視されている(大正蔵、二五番、五八四ページ中)。
さらに無我とは無自性と同義に解されるに至った。チャンドラキールティによれば「無
総の「我」とは「自体」(本体・本質)の意味であるという。したがって無我とは「無自性の意味であるとされている(『プラサンナパダー』四三七ページ)
無我とは縁起
このように無我が諸法実相、空、無自性と同じ意味であるならば、当然「無我」とは「縁起」の意味に解してさしつかえないのではなかろうか。『中論』(第二二章・第三詩前半)においても、
「他のものであることに依存して生ずるものは、無我であるということが成り立つ」ということから、「縁起」すなわち「無我」と解していたのであろう。ピンガラの註釈をみると一層明らかである。
「もし法(事物)にして紫の縁に困って生ぜば、すなわち我有ること無い。五(本の〕指に
困って拳有れども、この拳は〔それ)自体有ること無きがごとし」(大正蔵、三〇巻、三〇ページ上。この文から見ると、「我」と「自体」とは同義であると考えられていたことがわ
かる)
す。••••・無常・苦・空なるが故に無我なり。自在ならざるが故に無我なり。主無きが故に、名づけて無我と為す。諸法(あらゆるもの)は因縁より生ずるが故に、無我なり。無相・無作なるが故に、無我なり。仮に名字〔もてよばれたるもの〕なるが故に、無我なり。•••••・」
(三一巻、大正蔵、二五巻、二九三ページ下
– 縁起による四法印の基礎づけ –
縁起による四法印の基礎づけ
仏教では古来「三法郎」ということを説いた。「三法印」とは「諸行無常」「諸法無職」
菜が熱をいうのであり、「一切皆書」を入れると四法印となる。では中観派は他の二項目、すなわち「諸行無常」と「一切皆苦」とをどのように解していたのであろうか。
中観派は無常を空の意味に解している。
「無常を観ずるは、即ち是れ空を観ずるの因縁なり」(『大智度論』二二巻、大正蔵、二五
巻、ニニページ)
「無常は則ち是れ空の初門なり。無常を諦がに了せば、諸法は即ち空なり」(同三一巻、大
正蔵、二五巻、二九〇ページ下)
一切苦の縁起による基礎づけ
いま『中論』についてみるに、
「縁起したのではない苦しみがどこにあろうか。無常は苦しみであると説かれている。それ〔無常性〕は自性を有するものには存在しないからである」(第二四章・第二一詩)
といい、チャンドラキールティの註をみると、
「何となれば自性(本体)を有するものは緑って起こりはしない。そうして縁起したのではないものは無常ではない。何となれば存在しない虚空の華>は無常ではないから。…・・・そうしてもしも諸事物が本体(自性)を有することが承認されるならば無常なるものは存在しない」(『プラサンナパダー』五〇六ページ)
1. 四法印(諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静)は、伝統仏教において諸法実相の理解を示す標識であったが、中論においてはこれが縁起の観点から再編成されている。
2. 「無常」=「空」の初門とされ、「無常を観ずるは即ち是れ空を観ずるの因縁なり」(『大智度論』)と論じられ、無常さえも「縁起」によって説明される。
3. 「苦」もまた縁起の産物であり、「苦しみがどこにあろうか」という詩句に見られるように、苦とは実体的にあるのではなく、因縁によって構成されたものである。
4. 「無我」も縁起によるとされ、存在を成立させる自性(スヴァバーヴァ)を否定し、「自性なきが無我なり」としている。ゆえに自性を否定することが空であり、空とは縁起と同義である。