救済の星
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死からの出発
すべて)についての認識はすべて死から、死の恐怖から始まる。
僭越にも哲学は、この世に生きる者のこの不安を払いのけ、死からその毒針を、冥界からその気を抜きとろうとする。死すべきものはすべてこうした死の不安のうちに生きており、新たな誕生も不安の種をまたひとっ新たにくわえるばかりである。というのも、それは死すべきものを増やすだけだからである。倦むことなき大地のふところからは、不断に新たなものが生みだされるが、そのいずれもが死を宣告されており、いつかおのれが暗闇に旅だつその日を恐れとおののきをもって予期している。
しかし、哲学はこの世のこうした不安を否定する。哲学は、われわれが一歩踏みだすたびに足もとにぽっかりと口を開ける墓穴のうえを駆けぬける。哲学は肉体を破滅するにまかせるが、自由な魂はその破滅の淵から軽々と飛びはなれるのである。
肉体と魂のこうした区別など死の不安のすこしもあずかり知らないところであるということ、死の不安は、この<私)が、この<私)が、この(私)が〔死ぬのだ〕とわめきちらすばかりで、たんなる「肉体」のほうだけに不安を振りむけようとする試みにはいっさい耳を貸そうとしないということーそんなことが哲学になんのかかわりがあろうか。
- プラトン的な二元論〜肉体と魂のこうした区別に対して、肉体の死という現実的不安は、意味がないのにm
たとえ人間が盲目的にして冷酷な死という突然飛来する砲弾を恐れて、いわば蛆虫のように裸の大地のひだのなかに這いこみ、そしてそんなときに、いつもならとうてい気がつきそうにないことを、つまり、おのれのへ私)も死んでしまえばひとつのへそれ)でしかないのだということをいやがおうにも気づかされ、そうであればこそ、そうした予測しえない破滅をいまにももたらしそうな冷酷な死に逆らい、あらんかぎりの声をしぼりだして、おのれの<私>を言いたてようとも、哲学は、このたぐいのどのような窮境にたいしてもうつろな微笑みで答え、被造物はみずからの此岸にたいする不安に身を震わせているというのに、なんらかの彼岸を人差し指で指し示しながら被造物のまなざしをそちらのほうに向けさせるのである。
- 現実である此岸を生きる我々に対して、彼岸を指し示してきたのが哲学だ。
- 実存と形而上学
- 形而上学的哲学のやり方は、肉体から魂を区別したり、死の存在を無としたりすることだった
だが、被造物にしてみれば、そうした彼岸などすこしも知りたくはない。それというのも、人間はけっしてなんらかの束縛から逃れたいわけではないからである。むしろ、人間はとどまりたいのであり、彼が望んでいるのは生きることなのである。
死をみずからの特別のお気に入りとして推奨し、生の狭苦しさを逃れる絶好の機会として推奨するような哲学は、人間をただ嘲笑するものにしか思われない。
なんといっても人間は、自分がたしかに死を宣告されてはいても、自殺を賞告されているわけではないことを十分すぎるほど感じとっているからである。だが、あの哲学の推奨がほんとうのところ推奨できるのは自殺でしかなく、万人に宣告された死ではないであろう。自殺は自然な死ではなく、まったく自然に反した死である。自殺しうるというこの恐ろしい能力こそは、あらゆる存在者|われわれが知っているものであれ、知らないものであれしから、人間を区別するものである。自殺しうる能力はまさしく、すべての自然なものからのこうした逸脱を示しているのである。
- 彼岸に至る方法 自殺
人生においていちど逸脱してみることが、人間にはおそらく必要ではある。
人間はいちど〔ファウストのように、死をもたらす霊液のはいった〕高価なフラスコをうやうやしくとりおろしてみなければならない。
人間はみずからが恐ろしい貧困と孤独のなかにあり、世界のすべてから見捨てられていると感じ、一晩中<無>と向かいあって過ごしたことがいちどはあるにちがいない。
だが、大地はふたたび彼を必要とするようになる。人間はあの夜の褐色の液体を飲みほしてはならない。無>の隘路から脱出する道として人間に約束されているのは、ぽっかりと口を開けた深淵へのこうした転落とはなにか違った道なのである。
人間はこの世に生きる者の不安を投げすてるべきではない。彼は死の恐怖のもとにーとどまるべきである。人間はとどまるべきである。
- 転落、すなわち自殺は救済ではない。この世に生きるものは、その不安にとどまるべきである
要するに、人間はこのとどまるという、彼がすでに望んでいること以外のなにものでもあるべきではない。この世に生きる者の不安を取りさろうとすれば、この世に生きる者そのものが取りさられるほかはない。
だが人間は、この世に生きるかぎり、この世に生きる者の不安のうちにもまたとどまるべきである。そして、哲学がその、〈すべて〉の思想という幕をこの世のもののまわりに織りあげて人間からだましとるのも、こうした〈べき〉にほかならない。
というのも、たしかに〈すべて〉は死ぬことはないし、〈すべて〉にあってはなにものも死ぬことはないだろうからである。死ぬことができるのはただ個別的なものだけであり、そして、死すべきものはすべて孤独である。
- 哲学が思想という幻想を織り、〈すべて〉の思想、倫理として我々に「べき」を取り上げるのは、生きる限り、生きる者の不安にとどまるべきであるという当為だ。
個別的なものは死に、そしてまた孤独で、不安である
こうして、哲学は個別的なものを世界から始末(schaffen)せざるをえなくなるわけだが、
なにか)のこうした排去(Ab-schaffung)こそは、哲学が観念論的でなければならない理由でもある。
というのも、個別的なものを〈すべて〉から区別するものをすべて否定する「観念論」とは、哲学が反抗的な素材を加工して、その素材が〈一にしてすべて〉という概念の幕にもはや抵抗しないようにするための道具だからである。
すべてのものがこの煙幕にひとたび包みこまれてしまえば、むろん死は、永遠の勝利に呑みこまれるのではないにせよ〈無〉の一にして普遍的な夜のなかに呑みこまれてしまうであろう。そうなれば、死とは〈無〉であるということが、こうした知恵の最後の結論ということになる。
空と神
死というものを無にしてしまう。
すべてである、ということ。
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