恒有の意義
1. 「三世実有法体恒有」の意味
• 「三世」=過去・現在・未来
• 「実有」=実在する
• 「法体恒有」=法の本質(法体)が常に存在する
• つまり、「過去・現在・未来の三つの時点において、法の本体は常に実在している」という思想。
この立場は、有部の根本的な存在論です。
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2. 三世の区別の問題
法がすべての時間(過去・現在・未来)に実在するのであれば、どうしてそれらの時間的区別(過去と現在と未来の違い)が成り立つのか? という問いが生じます。
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3. 『大毘婆沙論』における学派の異説
この問いに対して、以下の4人の学者が異なる説を提示しています:
ダルマトラータ(法教):「類の不同」説
法の種類(性質)が違うので、三世の区別が立つとする
ゴーシャカ(妙音)
ヴァスミトラ(世友):「位の不同」説(=正統説)
法の働き・作用の違いによって三世を区別する
ブッダデーヴァ(覚天)
→ 有部の正統説とされるのは ヴァスミトラの「位の不同」説。 
これは、法の本体自体は変わらないが、それが働く作用の段階が異なることで三世の区別が可能になる、という考え方。
三世において功有とはどういうことか?
法とはわれわれが経験的に知覚するものではなく、したがって自然的存在ではない」
ここでの「法」は、いわゆる物理的・自然的な対象(現象)ではなく、それらの現象を可能にする構造・あり方
「経験されるものの背後にある、時間を超えた存在論的な形式」=現象を支える法的構造
西洋哲学との相違
普通一般に有部は実在論を説いたといわれるが、しかし有部は、瓶や衣のような自然的存在の実在を否定して、これを「仮有」なりとし、五蘊・十二処・十八界のような法の体系のみの「美者」を説いたのであるから、西洋哲学でいう普通の実在論とは著しく意味を異にする
すでにローゼンベルクは有部も観念論的であると主張している。また諸学者によってプラトーンの哲学との類似が指摘されているほどであるから、たといこれをrealismとよぶにしても実在論と訳するよりも実念論(唯名論 nominalism に対する)と訳したほうがよいかもしれない。インド学者の中でもこの点にすでに気づいている人、たとえばシャイエルは有部を「概念の実在論」(Begriffsrealismus)とよんでいる。
ところがこのシャイエルの命名も厳密にいえば正しくない。すでに述べたように、有部によれば心不相応行法の中の「句」は概念ではなくて命題である。概念のみならず命題の自体有 (Ansich-sein)を認めているから、「実念論」「概念の実在論」という語がぴったりと適合しない。むしろ現象学の先駆思想、たとえばボルツァーノの哲学と類似している点がある。ボルツァーノ、トワルドフスキーの哲学では「円い三角」のような矛盾した概念、あるいは「青い徳」のような意味をなさぬ概念も問題とされたが、有部は「第十三処」などは実有ではないという。
結局、有部の思想に西洋哲学の「何々論」という語をもち込むことは不可能なのではなかろうか。それと同時に、それに反対した中観派も「何々論」として簡単に規定することは困難であると思われる。
1. 有部=観念論的?
「ローゼンベルクは有部も観念論的であると主張している」
有部(説一切有部)は一見すると存在を実体的に捉える「実在論」的傾向がある、
経験的現象ではなく志向性の中で捉えられる法を本質的に扱うという点で、「観念論(idealism)」に接近しているとする見方。
- 観念論的=すべての存在は認識や意識を離れては存在しえないという哲学立場。
2. プラトン哲学との比較ー「realism(実在論)」?
「プラトーンの哲学との類似が指摘されている」
- プラトンのイデア論と、有部の「三世実有法体恒有」の共通性
変化する現象の背後にある不変の構造(法体/イデア)を認めるという点で類似
3. 「実在論」よりも「概念実在論」?
「実在論と訳するよりも実念論(唯名論 nominalism に対する)と訳したほうがよいかもしれない」
「実在論(realism)」
普遍(概念・法)が実在するという立場。
「実念論」
普遍的概念が心とは独立して実在するという立場(=Begriffsrealismus、概念実在論)。
有部の思想は「個物」よりも「法」や「構造」を重視する
「唯名論(nominalism=名辞のみの存在とする立場)」とは反対
4. 「概念の実在論」への批判
「有部によれば心不相応行法の中の『句』は概念ではなくて命題である」
- 有部の存在論には、単なる概念(名辞)だけではない
意味内容を持った命題の存在性(**自体有=an sich sein**)が含まれている。 
「句」は知覚的に捉えられるものではないが、
法の相互関係や時間的構造を命題的に定立する働きを持つ。
「概念の実在論(Begriffsrealismus)」ではその豊かさを捉えきれない。
## 5. **ボルツァーノ、トワルドフスキーとの比較**
「有部は『第十三処』などは実有ではないという」
ボルツァーノやトワルドフスキーのような**初期現象学・論理学的存在論**と有部の哲学は、存在の意味や命題内容の扱いにおいて類似性がある。
たとえば、意味内容としては成り立つが現実には存在しないようなもの(たとえば「青い徳」や「第十三処」)に対して、有部もそれを**実在しないが意味としては扱う**対象とする。
6. 有部を「何々論」で定義する限界
「結局、有部の思想に西洋哲学の『何々論』という語をもち込むことは不可能なのではなかろうか」
- 有部の存在論は、
現象と実在の関係
志向性と時間性
法と命題の構造
などが複雑に絡み合っており、単純な「実在論」「観念論」「唯名論」などの分類にはおさまりきらない。
**仏教哲学の独自性の強調**:
- 有部は単に「実体的リアリズム」ではなく、志向性・命題性を含む**構造的存在論**である。