剣道
「おまえも有段者になったら、木槌でたたかずとも鐘の音が聞こえてくるはずだ」とさらに理不尽なことをいう。剣道をしたいのに、これでは座禅をさせられているようなものだとおもったが(まさに剣禅一如を重視した道場だったのである)、がまんしたものだった。
その一週間後か、一ヵ月後のことだったか、ある友人に誘われて映画好きの大学生の会のようなところへ行ったところ、そこで上映されたルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬』を見ているうちに、驚くべきことがおこった。
ダリが加わって制作されたその実験的な映像を見ていると、なにかの加減でその映像がさきに進まないうちに、自分のイメージが触発されて映像の前に進んでしまうところが多かったのだ。「鳴らぬさきの鐘」ではないが、「見ぬさきの映像」なのである。妙に湯野先生が偉くおもえたものだった。
のちのちこれがシュルレアリスムというものかと合点はしたのだが、この二つの体験が私にイメージとかイマジネーションというものがただならないものだということを告げてくれたのだった。どうも知覚と対象のあいだには「次々に先をいくも[]のがあるらしい」ということである。