プリミティブな芸術とその様式
以下の論でわたしは、文化と(非言語的な)芸術の現象をすくい上げる見取図の作成を目指して、いくつかの理論的な試みを行なう。その試みはどれも完全に成功しているわけではなく、しかもそれぞれがまだバラバラで、見取図は不完全な断片の寄せ集めという状態にある。そんな次第なので、まず最初に、何をわたしが探求しているのか、学術用語抜きに話しておくのがよいかと思う。
オルダス・ハックスレーは、「優美」grac°の追求ということが、人間にとって中心的な問題なのだと述べている。彼のいうgraceの意味は、新訳聖書におけるgraceの意味(神の恩離)と変わらないとオルダス自身は考えていたが、しかしその説明は彼一流のものである。ウォルト・ホイットマン同様、彼もまた動物の行動とコミュニケーションに人間に失われた純良さ、素朴さを見出していた。人間の行動は、目的心や自意識からくる「あざむき」によって汚されている、おのれ自身すら人間はあざむく、その理由は動物たちがいまも持っている「優美さ」を人間が失ってしまったことにあるーとオルダスは考えた。 その文脈から彼は、神を人間よりむしろ動物に近い存在に見立てている。神はあざむくことを知らず、心を乱すこともなければ、誤った考えを抱くこともないと。
神も動物も具えている「優美」が人間だけに知けている、全存在者のなかで人間だけが唯ひとり脇にのけられているーーそんな図がここから得られるようである。
この失われた「優美さ」の(部分的)回復を目指すものとして、わたしは芸術というものを位置づけたい。その試みがある程度成功するところに、芸術家の至福があり、それが挫折に終わるところに芸術家の憤怒と苦悩がある、と。
わたしはまた、「優美」という大きな属のなかに、いくつもの種があるという考えを展開する。それとともに、「優美」からの逸脱、「優美」追求における失敗と挫折にもさまざまな種があると考える。各文化にはそれぞれ固有の「優美」があって、それを手にすることが、その文化を生きる芸術家の最終目標であり、また挫折のかたち
も各文化固有のものだということである。
文化によっては、芸術が成し遂げるべき困難な統合に背を向けて、意識か無意識かのどちらかでいけばよいという単純で粗暴な考えへ芸術家を導くところもあるだろう。しかしそこで生まれる芸術が「偉大」の域に達するのはむずかしいようだ。
多様な優美さ
他尺度
[]優美の基本は統合であるという考えを、これから展開していく。何の統合かといえば、それは魂の部分間の統合1とりわけ、一方の極を「意識」、もう一方の極を「無意識」とする精神の多重レベル間の統合ーである。
「優美」を得るには、情感の理 reasons of the hear と理知の理reasons of the reasonとが統合されなくてはならない。
さきの発表で[エドマンド・リーチ氏は、「一つの文化に根ざす芸術が、別の文化に育った批評家にとっても意味や妥当性を持つのはなぜか」という問いかけを行なった。それに対してわたしは、芸術が「優美」、すなわち魂の統合をなんらかのかたちで表現するものなら、その成功の例が、文化の壁を越えて人の心に届くということは大いにありうるだろう、という答えを用意するものである。ネコの身のこなしの優美さは、馬の優美さと根本的に違うけれども、どちらの優美さも持たない人間にしても、両方の優美さに感応できるーという理屈である。
芸術作品が統合の挫折を表現しているケースでも、その挫折の産物が文化を超えて認知されることは、ありうることだろう。
芸術作品には、魂の統合に関する情報が、どんなかたちで込められて(コード化されて)いるのか?!これが、本論で探っていく中心的疑問である。
優美の基本は統合である。
スタイルと意味
「絵画は物語る」という。この一般命題は、「単に"装飾的な幾何学模様を除いたほとんどの芸術に当てはまるようだ。しかしわたしは「物語」の分析に関わりたくない。芸術作品の中で容易に言語に還元されてしまう側面より
そのテーマやそれに関わる神話を取り除いたその奥を考えたいのだ。無意識から来るとされる男根象徴の神話にも、できれば関わりたくない気持である。(結びで触れてはいるけれども。)知覚対象としての芸術が何かを表わす rapresent 地平とはまったく別のところで、どんな重要な情報が、われわれの魂に届けられるのだろう。「スタイルとはその人自身である」Lestye ast Ihomme mem とビュフォンは言ったが、スタイルのなかに、題材のなかに、構成、リズム、技術その他のなかに埋もれている何が、ひそかに、見る人の心に届くのだろうか。問題をこのように設定してみれば、装飾的な幾何学模様の作品も、より具象的な作品と同じ資格で議論にからんでくることになるはずだ。
トラファルガー広場に立つ獅子の像を、鷺の像で置き換えてもブルドッグの像で置き換えても、大英帝国をつくった一九世紀イギリスの文化的諸前提について同じ(少なくとも類似の)メッセージを伝えることができるはずである。ところが、もしあれが木製の像だったとしたら、メーセージはどれほど違ってしまうだろう。
ただし、芸術によってなにかを表わそうという姿勢そのものは、われわれの問題に絡んでくる。アルタミラの、あの極度に写実的な馬や鹿の壁画が伝えているのは、後世の、ほとんど図案化された黒い縁どりによる動物の絵を支えているのとは確実に違った文化的前提だ。人や物(あるいは超自然的存在)を知覚してそれを木の像や絵の具のパターンに変換するときのコードに、その芸術家と文化に関する情報が込められるのである。
わたしの関心は、この変換の規則そのもの1メーセージではなくコードにあるのだ。
この探究の目標は、なにかの役に立つ道具を得ることではない。変換の規則を探り当て、それを逆向きに使って変換以前の姿を手にするとか、コード化されたメーセージを解読cocodeするとかいうことに、わたしの興味はない。芸術を神話に移し変え、その神話を分析するというやりかたは、「芸術とはなにか」を問う作業を放棄する、見てくれのいい方法でしかないと思う。
Miyabi.icon意味ではなく、意味を生み出すモデルの意味
可能なかぎり一般的で包括的な定義から入るのが便利だろう。
音素の連なりでもいい、一枚の絵でもいい、一匹のカエルでも、一つの文化でもいいが、なんらかの出来事または物の集合体に、とにかくなんらかの方法で「切れ目」を入れることができ、かつ、そうやって分割された一方だけの知覚から、残りの部分のありさまをランダムな確率より高い確率で推測することができるとき、そこには冗長性またはパターンが含まれることになる。これを、切れ目の片側にあるものが、もう一方の側にあるものについての情報を含む、あるいは意味を持つと言ってもいいだろう。
あるいはまた、工学用語を使って、その集合体が冗長性を含んでいるとも言えるだろうし、サイバネティックスの視点から、切れ目の片側から得られる情報が誤った推測を拘束するとも言える。
例を示そう。
一切れの英文のなかに現われたTという文字は、その次にHやRがくる可能性が高いことを告げている。すなわち、Tの直後に設けた切れ目の向こう側のありさまを、われわれはランダム以上の確率で推測することができる。これは、英文のスペリングが冗長性を含む、ということに等しい。英語の文の途中までを聞いて、残りの部分のシンタックスの構造を推測することが可能である。
木の地上に出ている部分を見て、地下にある根の存在が推測できる。このとき、上の部分が、下の部分についての情報を提供している。
実際に描かれた円弧を見て、円周の残りの部分、つまり描かれていない円弧の位置を想像するできる。(そして描かれていない円の直径から、理想的な円の円周の長さを割りだすことができる。もっとも、これはトートロジー・システムの内部で成立する真理に属する事柄だ。)
上司のきのうの行動のようすから、今日の行動のようすが推測できる。
わたしの発する言葉から、あなたがどんな返答をするかを、わたしは予測することができる。これは今の文脈で言えば、わたしの言葉があなたの返答についての「意味」あるいは「情報」を含んでいるということだ。
電信技師Aが、手書きのメモを見ながら、メッセージをBに電送し、Bが受け取ったメッセージをメモに書きつけるとする。このやりとり(ヴィトゲンシュタインの言う「言語ゲーム」)を見ている観察者0にとって、このとき事態は冗長的に進行している。Aのメモの内容を見ている0は、Bのメモに書かれていくことをランダム以上の確率で推測できるわけだ。
Miyabi.iconカオスにおける有限性
芸術作品の特性は、文化的・心理的システムを反映するという前提にわれわれは立っている。芸術はそれが属する文化に「ついて」のものだ、あるいは部分的に文化から「導きだされ」、また文化によって「規定される」ものだとわれわれは考える。
この考えを、極度に単純化すると、こんな図式が得られるだろう。
[芸術作品の諸特性/文化の他の諸特性]
ここで、角括弧は関連する宇宙の全体を画し、斜線は、そこを境として一方向または両方向に推測がはたらく切れ目を表わしている。ここで問題となるのは、斜線の区切りを越えてどのような関連性ないしは対応が存在するかということだ。
「雨が降っている」の諸特性/雨粒の知覚]
このケースが決して単純なものでないことに注意したい。雨粒についての推測が可能になるのは、あなたがわたしの話す言語を理解し、わたしの述べることにある程度の信頼をよせている場合に限られる。実際、こういう場面では、ほとんどの人が窓の外に目をやることだろう。そうやって情報を重複させることを、人間は抑制しないようなのだ。
われわれは、自分の推測の正しさと、友人の正直さの確認を求める。さらにもっと重要なこととして、われわれは他者との関係に関する自分の見解の正しさの確認を求める。
今の最後の点を軽視してはならない。すべてのコミュニケーション・システムが必然的に階層的な構造をとるという原理が、そこには明快に示されているからだ。パターンづけられた全体のなかの部分間の関係の整合性や不整合性(和”や米和)ーその他あらゆる関係のありようーがそれ自体、より大きな全体の一部として情報を担っている。これを図示すると、こんなふうになるだろうか。
[(「雨が降っている」/雨粒)/あなたとわたしの関係]
この図は、丸括弧で括った小さな宇宙のなかの切れ目にまたがる冗長性が、角括弧で括った大きな宇宙における冗長性を示唆している。あるいは、前者が後者についてのメッセージになっている。
Miyabi.icon隠れマルコフ過程]
レベルと論理階型
メッセージの「レベル」の問題に話が及んだ。
alメッセージ「雨が降っている」と雨粒の知覚との組み合わせが、それ自体、人間関係の宇宙についてのメッセージを担う。
b/思考の焦点をメッセージ素材の小さな単位から引き上げて、より大きな単位を捉えるとき、それまでバーバルなコード化しか見えなかったところに、イコン的なコード化が現われてくることがある。(ミミズの言語的記述が、全体として、ミミズのように伸長することがある。)で、他の雨粒の方向が推測できるというように。
しかし「雨が降っている」という言話的なメッセージを区切る切れ目と、降っている雨を区切る切れ目とは、単純な対応関係にない。
言葉で伝えるかわりに、雨の絵を描いて見せたとしたら、描いた絵を区切る切れ目のいくつかは、知覚する雨の切れ目と対応するだろう。
ふたつのケースの違いから、言語全体のなかのバーバルな(単にコトバからなる〕部分を特徴づける「恣意的」でディジタルなコード化を一方に、描出によるイコン的〔図像的〕なコード化をもう一方に置く、すっきりとした二分法が導きだされる。
ただし、バーバルな記述も、より大きな構図のなかで眺めると、イコン的な性格を帯びることがよくあるのだ。
象徴、表象、シュミレーションとしての記述
オートマチックなコード化という記述
神話を語ること、物語ることの難しさ
意識と無意識の層の違いという問題
芸術への科学的アプローチに関わってくると思われる四つ
1.物事を深く「知る」につれて、その知識について意識する度合が減っていく
サミュエル・バトラーの主張。
知識(あるいは行動・知覚・思考の「習慣」)が精神のより深いレベルへと沈降してゆくプロセスが見出される
禅の修行は、このプロセスの進展にねらいを定めた非常に明瞭な例(ヘリゲルの『弓と禅』
この現象は、すべての芸術と、すべての技能skil獲得のプロセスに関わる
2三次元の視覚像の生成プロセスについて
アダルバート・エイムズが行なった実験の成果
視覚神経がとらえた情報から立体的イメージが作られるときのプロセスには、遠近法など数々の数学的前提が組み込まれているが、それらの運用は完全に無意識のレベルで進められており、そのプロセスを意志によってコントロールすることはできない。
3夢を「一次過程」にのっとってコード化された隠喩の群れと考えるフロイト派(わけてもフェニヘル)の理論。
芸術の様式、ざっぱりしたまとまり、大胆な対比等々ーは隠喩的なものであり、したがって一次過程の進行する精神のレベルに根ざしている。
4無意識を、恐ろしい、苦痛に満ちた記憶が抑圧のプロセスによって押し込めらた地下室ないし戸棚として考えるフロイト流の見解。
古典的フロイト派理論は、夢というものを、"夢の仕事”がつくり出す二次的な加工品と見た。
意識的思考が否認し、無意識に落ちたおぞましい素材が、夢見る人にショックを与えないように、陰喩的なイメージに置き換えられるという考え
たしかに、抑圧プロセスによって無意識に押し込められる情報については、そう考えて正しいのかもしれない。しかし意識によって検索できない情報というのは、すでに見たとおり、多くの種類に及ぶのである。哺乳動物間の相互作用を成り立たせる数々の前提も、そのほとんどが無意識なものであるはずだ。
これらは、一次的に一次過程のイディオムとして存在し、それを理性的”な言葉に翻訳するのはある種の無理を押してはじめて可能になる、と考えた方が筋が通るとわたしは考える。つまり、初期フロイト理論の多くが逆立ちしているということである。当時は意識的で理性的なものこそがノーマルであり自明なものである、無意識は謎でありそれが存在すると言うためには証拠と説明が必要であると考える人が多かった。その説明を与えたものが「抑圧」という観念だった。こうして無意識には、本来意識的な存在でありえたのに、抑圧や夢の仕事による変形の結果そこに押し込められたものが詰まっているということになってしまったのである。今日では意識こそが神秘であり、一次過程など無意識の演算プロセスは、たえまなく働く、必要不可々な、全包括的なものとして考えられるようになっている。
Miyabi.icon高次元の情報処理システムや、情報それ自体が「圧縮されている。ということについて、抑圧の図式が現れる
今の考察は、芸術や詩について理論化を試みるときに特に重要になってくる。というのも、詩とは散文に変形を加えたり装飾をこらしたりした二次的なものではなく、むしろ散文こそが、詩を論理のベッドにくくりつけ、論理の寸法に合うよう丈を伸ばしたり切断したりした存在であるからだ。翻訳ソフトを開発しようというコンピエータ・プログラマーは、言葉の一次的な本性を見誤っているように思える。その愚かさは、一つの文化の芸術を他の文化の芸術へ翻訳する機械を作ろうとする試みの愚かさと同等である。
「アレゴリー」というものがあるが、これは通常の創造プロセスが逆転されたものであり、芸術の一形態と呼べるにしても、ずいぶんとぎこちないものと言わなければならない。
典型的なアレゴリーでは、まず「真実と正義」というような抽象的な関係が、理性によって心のなかに抱かれる。
その関係が後に隠喩化され、一次過程の産物らしくめかし立てられる。
こうして抽象概念が人間の姿で登場し、神話もどきの世界でたちふるまったりする
広告芸術の多くも、本来の芸術とは創造過程が逆転しているという意味で、アレゴリーの仲間
アングロ・サクソン人の常套句のシステムを見ていくと、無意識は意識化されることが好ましいという前提がうかがえる。フロイトの思想ですら、「イドありしところエゴあらん」というような言いまわしで巷に流布している。まるで意識的な知、意識による制御が、常に増大していくことが可能であり、言うまでもなくそれは向上なのだといわんばかりだ。この見解は、ほとんど完全に歪んだ認識論とまったく完全に歪んだ人間観・生物観の所産である。
Miyabi.icon暗黙知の形式知化信仰
さきほど列挙した四種類の無意識観のうちの最初の三種は疑う余地なく必要なものだ。精神過程全体のうち、意識の占める割合は必然的にかなり限られたものになることは単純な機械論的説明からしても明らかである。意識は十分に抑えられた状態で、はじめて精神プロセスの役に立つわけだ。習慣によって無意識に事が運ぶことで、思考と意識の節約がもたらされる。知覚のプロセスに意識が割り込めないのも、理由は同じだ。意識は何を知覚したかを知ればいいのであって、どのように知覚したかを知る必要はない。そんなことをしても、精神全体にとって「得」にならないのだ。(意識できない一次過程が基本にあるからこそわれわれは機能できるのであって、そうでなくても機能できると考えることは、脳が違った構造を持つべきだと主張するのに等しい。)さっき挙げた四つタイプのうち、要らなくて済む、あるいは邪魔であるかもしれないのは、
Miyabi.icon理解はともかくプロセスはいらない。end to end
いらないというか、いらないような仕組みになっている。
われわれの生活のすみずみに、無意識のあらゆる形態がつねに重層的に姿をあらわしている。人間関係の場でも、絶えず多くのメッセージが意識されぬまま行き交っている。われわれが伝えようと意図するメッセージは、おのずと表出する意図されないメッセージにつつまれる。そのために、このように複数のレベルで同時に発せられるメッセージを交通整理するメタ・メッセージが、また必要になってくる。
今の点は、実用性の観点からだけでも重要である。メッセージの等級が違うと、それに応じて「真実の等級」が違ってくるからだ。メッセージが意識的・意図的なものである限り〜話の内容が関係そのものに及ぶとき、その発話にはふつう、意識によってコントロールできにくい自律したシグナル群がついてまわる。そして言葉によるメッセージよりも、それに対するコメントとして位置づけられる体感的 kinestic なメッセージの方に、人はより大きな信頼を置くものである。
芸術作品が、芸術家の技能(”腕”)を伝える場合も話は同様である。芸が「うまい」という事実そのものが、芸術的パフォーマンスにおける無意識の要素の豊かな広がりを証明しているのである。
以上の議論から、どんな芸術作品に対しても、こんな問いをもって接することが適切だということが確認できたと思う。ー「作品が内包するメッセージ素材のどの要素が、芸術家の心の(意識から無意識へ至る)どの階層と結ばれているのか?」感受性豊かな批評家は、まさにこの問いをもって芸術作品に接しているのではないだろうか。(そのことを意識してはいなくても。)
この意味で芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズであると言える。あるいは、この種のコミュニケーションがより十全に行なわれるようにわれわれの精神を鍛練することをひとつの働きとする、遊戯行為であるとも言える。
踊りと言語
さきほどアントニー・フォージ氏が引用したイサドラ・ダンカンの言葉を取り上げてみよう。彼女は「この踊りの意味が口で言えたら、踊る意味がなくなるでしょう」と語った。
彼女の言葉は複数の意味に解釈することが可能である。われわれの文化に深くしみついている、いささか粗野な前提からすれば、こんなふうに翻訳されるのだろうー「だって踊る意味がないですわ。コトバの方が素早く、しかも明瞭に伝えられるはずですもの。」この解釈は、何事も無意識のままより意識した方がいいと考えるナンセンスと同類である。
イサドラ・ダンカンの発言から読み取れる別の意味はこうだ。もしこれがコトバで伝えられる種類のメッセージなら、踊る意味はないかもしれないけれど、これはそういう種類のメッセージなのではない。むしろ、コトバに翻訳したのではどうしてもウソになってしまう種類のメッセージなのだ。なぜなら、(詩以外の)コトバに置き換えられるということは、それが意識的で意図的なメッセージだということを意味するわけで、この場合事態はそうでないからだ。
イサドラ・ダンカンが、そしてすべての芸術家が伝えようとしているメッセージは、むしろこんな内容のものではないだろうかー「部分的に無意識的なメッセージをわたしなりに作ってみました。これを通して部分的に無意識的なコミュニケーションをやってみませんか。」あるいは「これは、意識と無意識をつなぐインターフェイスについてのメッセージです。」
芸術における意識と無意識が、コミュニケーションの階層性と同様に扱える。
ここでは、芸術は他者とのリレーションの中で論じられるサイバナティックである。
あらゆる種類の技能の伝達は、つねにこの種のものだ。熟達した芸を見たとき、われわれは「すばらしい」ことを意識するが、それがどうだから「すばらしい」のかを言葉でうまく語ることはできない。
芸術家は奇妙なジレンマに陥っているといえそうだ。訓練によって技能に熟達していくにつれ、自分がそれをどのように行なっているのかが意識からすり落ちていく。意識の手を離すことで、技能が"身”につく。
芸術家の試みが、自分のパフォーマンスの無意識的要素を他人に伝えることであるとしたとき、彼は一種のエスカレーターというのだろうか、動く階梯の上に立ちながら自分の乗っている段の位置を表現するのだ
一次過程
「情感には、理性が感取しえない独自の理性がある」アングロ=サクソン人の間では、この「ハート」すなわち無意識の論理を、一種始源的な「力」や「押しあげ」や「うねり」ーフロイトの言ったTrieben 〔欲動〕ーとして捉える傾向が一般的である。フランス人のパスカルは別な見方をした。彼のいう「ハートの理性」は、意識の理性と同程度に正確で複雑な論理と演算からなるものだった。
(アングロ゠サクソン系の人類学者がクロード・レヴィ=ストロースの著作をしばしば誤解するのは、まさにその点が理由なのではないだろうか。彼らはレヴィ=ストロースが知を偏重し情を無視していると批判するのだが、実はレヴィ゠ストロースは、「ハート」が精密な演算規則 algorithms をもっていることを前提としているのであ
る。)
Miyabi.icon情動のアルゴリズム
だがそうした「ハート」の、いわゆる「無意識」の、演算規則は、言語の演算規則とは全く別の方法でコード化され組織されている。しかもわれわれの意識は、大部分言語の論理によって組み立てられている。そのために、無意識の演算規則を意識で捉えることは二重の困難をともなう。意識に支配されている限り精神はこうした対象をつかむことができないというばかりでなく、かりに夢、芸術、詩、宗教、酩酊などによってそれが運よく把握できたとしても、それを言葉に翻訳するのがまた途方もなく難しいのだ。
これをフロイト的に言うと、無意識の行なう操作は「一次過程」の諸原理によって構造づけられ、意識の行なう思考(とりわけ言葉による思考)は「二次過程」によって表出される、ということになる。
「二次過程」については誰一人何一つとして知っていないとわたしは思うのだが、一般には誰もがすべて知っていることになっているので、それにしたがってみなさんもわたしと同じくらい知っている考える
一次過程の特徴
フェニヘルらの説明によると
否定形をくこと、時制をくこと、いかなる動詞の法(直接法、仮定法、希求法・・・..)にも収まらないこと、陰喩的であることが挙げられている
これらは、夢解釈や自由連想のパターン研究を専門とする精神分析医の経験から出てきたものである。
一次過程が語る内容(ディスクールの題材)が、言語と意識の扱う題材とは違っている。
意識はものや人を特定し、それに述語を賦与することで語りを組み立てていく。
一次過程はふつう、何(または誰)について語っているのかを明かさない。
関係が結びつける具体的な項 relata ではなく、関係そのものに焦点を当てる
これはすなわち、一次過程のディスクールが隠喩的であるというのと同じである。
陰喩 metaphor とは、
関係を同じに保ったまま、その関係が結ぶ項を別のものや人で置き換えて、それがどのような関係であるか暗示”するもの
直喩simlでは、“asif” や “like”のような語を差しはさむことで、隠喩が使われた事実が明らかにされる
夢や芸術は、一次過程に埋もれている限り、この直喩の方法がとれない。
一次過程には、メッセージの素材が隠喩的なものだということを意識に告げるための指標がない
一次過程の素材は隠喩的であり、関係が結ぶ項を具体的に明示しないと述べたが、この場合の「関係」とは、われわれが意識の言葉で思い浮かべるものよりもかなり幅の狭いものである。夢やその他の一次過程が扱う関係は、自分と他者、あるいは自分と外界との関係に限られるのだ。
この自分対他人、自分対外界の関係こそわれわれが愛・憎・恐れ・安心・不安・敵意等によって「[感じ 」ている事柄しそれらの「フィーリング」によって扱われている主題ーである。フィーリングや感情というものが、厳密で複雑な演算体系のあらわれであるという考えに居心地の悪さをおぼえるアングロ=サクソン人は、この単純な事実に気づかずにいるらしい。
これらはみな関係性のパターンを指す抽象観念であるのに、そのパターンを厳密に把握しようとはせずに、すべて量の問題に還元されてしまっているのは残念なことだ。ナンセンスな心理学が歪んだ世界認識に寄与する、これはいい見本と言っていいだろう。
それはさておき、ここで重要なのは、今述べてきた一次過程の特性と、イコンだけに基づく動物のコミュニケーションの特性とが必然的に重なり合うという点である。芸術家も、夢見る人も、ヒト以外の哺乳類・鳥類も、みな同じ規律のもとでコミュニケーションを行なっているのである
イコン的コミュニケーションには時制もなければ、単純な〔単に“not”をつけるような〕否定も「法」(直接法・命令
法・仮定法等の違い〕や「態」〔能動・受動等〕を示す指標もない。
単純な否定が存在しないという事実は特に興味深い。この場合、動物は、言っていることの反対のことを意味いているのだという命題を伝えるために、意味していることと反対のことを言う状況に追いやられるわけだ。
一般に動物は、自分と他者の、および自分と外界の関係について語るが、いずれの場合も、それが何と何との関係であるかを明らかにする必要はない。動物Aは、自分とBとの関係をBに語り、自分とCとの関係をCに語ればいいのであって、自分とBとの関係をCに語る必要はない。その関係で結ばれる両者は、つねに目に見える形でそこにおり、そこで取り交わされるのは、つねに行動の一部(いわゆる”意志表示のしぐさ”intention movemente)
をもって行動の全体を差し示すというタイプのイコン的メッセージなのである。
Miyabi.icon無意識への沈み
以上の考察はことごとく、一次過程で起こる思考とその思考の他者への伝達行動が、言語等の意識的な作用よりも進化の前段階に位置することを示している。そしてこのことは、精神の経済的・動力学的構造の全体に関わってくる。サミュエル・バトラーは1おそらく彼が最初だろうーわれわれが一番よく知っているのは、われわれが一番意識していないことだと指摘した。これは、習慣形成のプロセスが、より無意識的でより太古的なレベルへ知が沈んでいくプロセスだということを述べたものである。無意識の中に含まれるのは、意識が触れたがらない不快な事柄だけではない。もはや意識する必要のないほど慣れ親しんだ事柄も多く含まれるのだ。”身についた”ことは、意識の手を離れ、そのことで、意識の経済的な活用が可能になる。芸術家が「腕」を見せるとき、彼は自分の無意識に沈めた事柄に関するメッセージを伝えているのである。(ただし、それを無意識からのメッセージというのは適当でない。)
問題は、しかし、それほど単純ではない。無意識レベルに沈めたほうが得な知もあれば、表面に残しておかなくてはならない知もある。総体的に言って、外界の変化にかかわらず真であり続ける知は沈めてしまって構わないが、場に応じて変えていかなくてはならない行動の制御権は確保しておかなくてはならない。
恒久的に真であり続ける関係性についての一般事項は無意識領域に押しやり、個別例の実際的処理に関わる事項は意識領域に留める、という答えがシステムの経済的要請からでてくるのである。
思考の前提は沈め、個々の結論は意識の上に残しておくのが得策である。しかし、この「沈め」は、経済的であるといっても、やはり「手放す」ことの代価を払って得られるものだ。沈める先が、喩とイコンの演算規則がとりしきるレベルである以上、そこからはじき出されてきた答えがどのように導き出されたのか、もはや知ることはむずかしい。逆に言うと、ある特定の言明とその比喩的表現とに共通の部分は、無意識に沈めるべき一般性を有している、ということである
Miyabi.icon思考の沈め
end to end
]意識の量的限界
百パーセント意識的なシステムというものが論理的に不可能だということは、次のように考えればすぐに明らかだ。意識というものを、精神のさまざまな部分からの報告が映し出されるスクリーンに見立てる。精神プロセスの全体を見ると、そのなかには進化の現段階ですでにスクリーンに届いている部分と、まだ意識化ができていない部分がある。その意識化されていない領域から必要な報告をスクリーンに届けるには、脳の回路にかなり膨大な回路を新たに増設しなくてはならない。すると次に、いま増設した回路のなかで起こる出来事ないしはプロセスをどうやって意識のスクリーンに送るかが問題になる。
この問題が解決不可能だということは一目瞭然だろう。システムの意識化を進めようとする度に、意識化できない部分をどんどん加えていかなくてはいけないわけだ。
すなわち、有機体はすべて、精神全体のうちのささやかな部分を意識するだけで満足しなくてはならないということである。だとすると、その限られた意識を経済的に活用することが重要な問題になってくる。ただしこれは意識というものが有益な機能を持つと仮定してのことだ。(事実有益だと立証されているわけではないか学識にしたがってそう考えておこう。)とにかく、無意識レベルで扱える問題を意識するなどという無駄は、有機体に許されることではなさそうだ。
この経済性を得るために形成されるのが、「習慣」であると考えてよい。
意識の質的限界
テレビ受像機のスクリーンにまともな映像が出ていれば、機械の多くの部分がきちんと機能していることになる。
「意識のスクリーン」にも同様の議論が当てはまる。しかし精神の場合も機械の場合も、各部分がどのように作動しているかということまで、画面に映るわけではない。テレビの真空管が切れたり、人間が発作に襲われたとき、病変の効果はスクリーンや意識に明らかに映し出されるが、実際何が起こったかは、専門家の診断を待たなくてはならないわけだ。
この議論は芸術の本性という問題に関係してくる。画面の調子がおかしいテレビが、いわば機械の無意識における病を伝達している(その症状を露呈している)のだとしたら、芸術家の作る作品も彼の無意識の「症状」を映し出しているとは考えられないだろうかー。しかしこれはいささか性急な議論だ。
芸術作品に見られる歪み(たとえばヴァン・ゴッホの描いた”椅子”)が、芸術家の「見た」ままを直接表現しているかのような言い方が、ときどきされる。「見る」という言葉が、ここで物理的な(つまり眼鏡で矯正できる種類の)意味を担っているとするならば、その矛盾は明白だろう。そんな歪んだ椅子の像しか結べない目は、キャンバスに正確に絵具を置いていく役をうまく果たしてはくれないわけだし、また、キャンバスの上に描かれた写真的リアリズムによる椅子の絵をも、同じように歪めて見るはずだから、絵を歪める必要など最初からないわけである。
だが芸術家は昨日見たものを今日描いている、あるいはこうも見えるということを何らかのやり方で知っていて、その絵を描いているとしたらどうだろう。「わたしにもあなたが見るのと同じ世界が見えるけれども、椅子がこんなふうに見える見え方が人間の可能性としてあって、その可能性をみんな分かちもっているのではないですかな?」ーこれは、こういう症状に陥ることは誰にもある、人間は可能性としてあらゆる精神異常をきたしうるのだから、というのと同じだろうか?
アルコールやドラッグによって、同様に歪んだ世界が知覚できることがある。この場合、そうした歪みは「自分のもの」として体験されるだけに、一層魅惑に満ちている。「酒には一かけらの真理あり」と言う。酩酊の中で、自分は世界をこう見ることもできるのだ、これもへ真理>の一部なのだと思い、それによって自己の拡大や縮小を味わうということはあるだろう。しかし、酊によって何らかの技能が向上することはない。以前に身につけていた技能がそれによって解き放たれるということはあるにしても。
技skil なきところに芸=rはない。
ある人が黒板に1あるいは洞窟の壁に歩みより、恐怖にかられたトナカイの完璧な姿をフリーハンドですらすらと描くというケースを考えてみる。どうやって描いたかについて彼は何も言うことはできない。(「口で言えることなら、描いて見せる必要はないでしょう。」)そこにあるのは、「このような完璧なトナカイの見え方、描き方を人間は可能性としてみんな持っているのではないですかな?」というメッセージだ。この芸術家の「腕」の見せどころは、彼とトナカイとの関係についてのメッセージを伝えるところにある。トナカイへの共感のメッセージを伝える腕、と言ってもいいだろう。
(アルタミラの壁画はよく、「共感狩猟呪術」aympathetic huntng masic の例だとされるが、単に呪術のためなら、どんな粗雑な表現でもすむのである。呪術を言うなら、あの美しいトナカイにとって汚点となっている、矢の方だ。
ぞんざいに描きなぐられたあの矢は、芸術を呪い殺すための野卑な計りごとのように見える。モナリザの顔に落された髭のような。)
芸術がもたらす治療
意識は全体ではなく選択された一部だけしか捉えられないこと、そしてその選択は必然的に偏っていることを述べた。意識が捉えるのは、自己についての真実全体の氷山の一角にすぎない。しかしこの選択が、ランダムにではなく体系的に行なわれるというところが問題である。この場合、意識が真実として捉えたものは、全体の真実を歪曲したものになることが避けられないのだ。
氷山の場合、水面上に捉えられる部分から、水面下にあるだろうものを推しはかることができるが、意識の内容から同じような推測を行なうことはできない。それは単に意識の「好み」が偏っていて、おぞましいものをみなフロイト的無意識の暗がりへ押しやってしまうという理由からばかりではない。選択が「好み」だけによるものだったら、意識の内容はさだめし楽天的であることだろう。
重大なのは、意識が精神の回路を切断してしてしまうところだ。精神というものは、一つの統合されたネットワークである。(そうとしか考えられない。何のネットワークかといえば、「命題の」、「イメージの」、「プロセスの」、「神経回路の」、その他好みに応じたさまざまな答えが出てくるだろう。)そして、ネットワークの各部局から別個に届くものが、意識の内容を構成する。この考えが正しいとすると、意識は、ネットワーク全体の統合された姿を、決して見ることができない。意識に見えるのは、八つ裂きになった精神の姿だけだ。意識による切断面の上部に現われるのは、さまざまな回路の弧の群れにすぎないのであって、完結した回路(回路の回路・・・・・・)の全体の姿は決して意識に届いてこないのである。
芸術・夢などの援けを受けない孤立無援の意識に、精神のシステム性を感受することはできない。
この考えを、ある便利な例によって解説してみよう。生きた人間の身体もまた、複雑に統合されたサイバネティック・システムである。このシステムは科学者、特に医学系の人たちによって長い間研究されてきた。しか
しそこで蓄えられてきた知識は、身体のシステム性の解明につながっていない。ちょうど孤立した意識が精神全体を切り裂いて把握するように、現在の医学の知も、回路の短い「弧」しか捉えてはいないのだ。医者であることは、「あれ」や「これ」を直すことを意味する。彼らの研究努力は、したがって、(注意が意識の焦点を絞るのと同じように)自分たちに操作可能な短い因果の列に焦点を絞り、そこに薬や他の手段を介在させ、具体的で認知可能な状態(症状)を直すことに向けられる。効果的な“療”法が発見されると、その研究はうち止めにされ、今度は別の研究に注意が向けられる。今われわれは小児マヒを防ぐことができるが、この魅惑的な病気が一体何であるのか、システムの見地から知っている人間はいない。研究はストップしたか、あるいはワクチンの改良というささやかな目的に限られてしまっているのだ。
病気をそれぞれ個別化し、それぞれの防ぎ方や直し方のトリックを身につけても、全体性を看取する智>wisdom
は生まれてこない。われわれのトリックは一方で、生態系や種の個体群の動的均衡を崩し、抗体に対する病原体の免疫性を強め、新生児と母親との接触を断つというような、さまざまな問題を生み出してもいるのだ。
意識が切り取ってくる因果連鎖が、始めと終わりが切れたものではなく、システムの大小さまざまな回路の一部をなすものであるとき、切り取った連鎖をいじればシステムの正常な働きは阻害される。しかも医学はテクノロジーのほんの一部にすぎないものだ。今後現われてくるテクノロジーは、生態システムの、いまだ正常に機能している部分をどこまで攪乱していくのだろうか。
今の議論のポイントは、医学の批判にではなく、必然的で不可避的な事実を指摘することにある。芸術、宗教、夢、その他われわれの存在の深みに関わる現象から孤立した、単に目的的な合理性は、一種の病原体のようなものであって、生に対し破壊的に働くこと、そして、その破壊性の源は、生というものが無発的性格をもつ諸回路が多数噛み合ったシステムとして成りたっているのに対し、意識はそれらの回路のうち人間の目的心が誘うことのできる短い弧の部分しか捉えることができないところにあることー
-これがわたしの論点である。
孤立無援の意識は人間をつねにある種の愚行に巻き込むのだ、と言ってもいいだろう。進化が恐竜を核競争のような一方的肥大化システムに巻き込んだ、そしてそれを恐竜たちにとってのコモンセンスにしてしまったときに犯した愚行のようなものに。進化は、百万年もしてから(必然にしたがって)おのれの過ちに気づき、恐竜を抹殺したのである。
孤立した意識は、つねに憎しみに傾く。他のものは消してしまった方が便利だという常識”がそうさせるのではない。その背後には、回路の弧しか見られない人間は、計算づくの目的的行為が裏目に出て自分を苦しめるという状況に出会うとき、驚きとともに怒りを禁じえないという、より深い理由があるのだ。
DDTで害虫駆除を見事に達成した場合、虫に依存していた鳥が飢えて死ぬ。そうすると鳥が食べてくれていた分の虫殺しまでDDTに代行させねばならないことになる。いや、それよりまず第一ラウンドで、毒入りの虫を食べた鳥が死んでしまうことになるだろうか。DDTで犬を死滅させてしまえば、泥棒抑止のためその分だけ響察力に依存しなくてはならなくなる。するとその分だけ泥棒に知恵と武器がついてくる。
われわれはこんな循環的世界に生きているのであり、そこで愛が生き続けるためには、<智)の声を届かせなくてはならない。循環性の事実を認知することも、<>の営みのひとつである。
ここまでの議論によって、これまで人類学で慣例となっていた問いとは少々違った問いを、一片の芸術作品に対して投げかける用意が整った。これまでたとえば「文化とパーソナリティー学派」の研究者は、芸術作品や儀式を、ある特定の心理的テーマや心理状態を探るためのサンプルないしは探針として使ってきた。そこで問われるのは「芸術作品は、それを作った人間のパーソナリティーについて何を語っているか」という問いだ。しかし、これまで示唆してきたように、芸術がわたしの言う<智>の維持に積極的に寄与しているのだとすれば、ーつまり、生に対するあまりに目的的な見方をよりシステミックな方向へ治癒していくことに関わっているならば、われわれが問うべきなのはこういう問いである。「この芸術作品を創る、あるいは見ることで、<>に向けてのどのような心の修正がもたらされるのか?」これは発問者自身を巻き込む、動的な問いである。
バリ島絵画の分析
これまで進めてきた芸術の認識論から、具体的な芸術様式の分析に移るにあたって、まずきわめて一般的で明白な事柄を押さえておきたい。
芸術と呼ばれる行動、あるいはその行動の産物(これも芸術と呼ばれる)は、ほとんど例外なく、二つの特性を持っている。まず第一に、芸術は技能を必要とする。あるいは技能を披露する。そして第二に、芸術には冗長性とかパターンとかいうものが含まれる。
しかし芸術家の技能はまず冗長性を維持すること、そして次にその冗長性を「変奏」することに発揮されるわけだから、右の二つを別個に扱うことはできない。
職人的な技能が比較的低次の冗長性を司っている場合、今述べたことが明瞭に観察される。例としてバリ島、バトゥアン村の絵師イダ・バグス・ジャーティ・スーラが一九三七年に描いた作品を使おう。バトゥアン画派の絵画はほとんどがそうであるが、この絵にも背景に濃密な葉の繁みが描き込まれており、そこに基本的ではあるが高度に訓練された技能が発揮されている。ここで冗長性は、まず葉形の均一性ないしリズミカルな繰り返しという形で得られている。しかしこれは、いわば「もろい」冗長性だ。その隣に汚点を配することで、あるいは次にくる葉のサイズまたは価調を変えることで、この種の冗長性は簡単に壊れたり途切れたりするものである。
バトウアンの絵師が他人の作品を見るとき、まず背景の繁みのテクニックに注目することが多い。葉の描き方を言うと、まず最初に鉛筆のフリーハンドで輪郭をふちどり、それから一枚一枚黒のペンでしっかりなぞる。すべての葉の輪郭が出来上がったのち、筆に薄い墨を含ませて一度塗り上げ、それが乾いてから二度目は外縁を除いて、葉の中央部近くを塗り、その次はさらに内側と、同心円状に重ね塗りをやっていく。こうして、縁が白っぽく、中心に行くにしたがって西濃くなっていく葉の群れが描きあがる。
の高い」絵では、葉の一枚一枚に五重ないし六重の塗りが施される。(その意味からすると、この絵は三重塗りか四重塗りなので、格はあまり高くない。
このレベルでの技能は、身体で繰り返し覚える筋感覚的正確さに負っている。カブを整然と配した野菜畑のもつ有無を言わせぬ芸術性が、ここで達成されているわけだ。
すばらしく腕のいいアメリカ人の大工が、自分で設計した木造りの家を建てるところを観察したことがある。
わたしが手順の確かさと仕事の正確さに感心すると、彼はこう答えたー「いやね、タイプを打つようなもんですよ。考えてやっているうちはだめでね。」
しかしこうした「正確さ」の上に、レベルの異なる冗長性がくる。低次の画一性を「変奏」するところに高次の冗長性が生まれるのだ。ある箇所の葉を別の箇所の葉とどう違えるのか。そしてそれを違えながらも、その違いがそれ自体なんらかの冗長的な繰り返しのなかに1つまりより大きなパターンのなかにー収まるためには、全体をどうあしらったらいいのか。
実際のところ、第二のレベルを成立させることこそ、第一レベルにおける制御の必要性と機能があるのだ。この絵かきは、その気になれば葉を均一に描くことができる、という情報を鑑賞者が受できなければ、その均一性が変奏されることの意味が消えてしまうわけである。
つねに一定の音色を出せるバイオリン弾きだけが、音色の変化を芸術的効果のために使うことができるということだ。
この原理は美的現象を考える上で基本になるものである。技能とパターンとの結びつきは、美の鑑賞にはほとんど普遍的なものだが、その理由も今の原理から説明されると思う。例外もたしかにある。手を加えていない自然、拾ってきたものをそのまま陳列する「ファウンド・オブジェ」、インクのしみ、統計の点々図、ジャクソン・ポロックの作品。これらが美を伝えることはある。しかしそこには同じ原理が逆から例証されてはいないだろうか。目にするオブジェそのものの構成はたとえランダムであっても、より大きなパターンのなかで、そこに制御ているという錯覚が生まれることはあるだろう。また中間段階のケースもある。バリの木彫りの像ではよく、像の形と表面の細部をあらわすのに自然の木肌がそのまま生かされる。ここで彫師の聯は、細部をいかに「構成する」かではなく、すでに構成されている木のなかに、どのように自分の発想を忍び込ませていくのかという点に発揮されるわけだ。ここに単なる具象によって得られるのとは違った、特別の芸術的効果が生まれる。彫師のデザインと自然の物理的システムが協働してこの像の姿を決定しているということが伝わってくるところに、独特の美的効果が生まれるのである。
このもっとも基本的で明白なことを意識し続けながら、より複雑な問題に話を進めていきたい。
作品構成
1葉も他のフォルムも絵の縁に届かず、暗がりへ消えていく感じになっており、四角い外縁は一様にぼやけた黒の帯になっている。言いかえれば、絵が絵自体のフェード・アウトによって縁どられている。描かれたシーンが火葬儀式の始まりという見慣れた光景であるにもかかわらず、この絵が「非現世的」な雰囲気を持っている(少なくともその印象は抑止されていない)のは、この処理に負うところが大きい。
2これは、ぎっちりと描き込まれた絵である。画面のどの部分もスキなく構成しつくされている。紙一面に塗り込められているというだけでなく、一定の狭い範囲を越えて同じ塗り方が続かない。均一に塗られているもっとも広い部分は、一番下の人間の足の間の部分である。
これは西洋人の目には、騒然とした落ちつきのない印象を与えるだろう。精神分析医の目には、「不安」と「強迫観念」のあらわれと映る。ノイローゼ気味の友人から届く、あらゆる話がギッチリとページを埋めつくしている手紙を読むのに似た印象だ。
3 しかし性急な診断や評価を下す前に、絵の下半分の構成の騒然としたようすを、背景の充満性とは切り離し
て注目する必要がある。描かれた人物に激しい動きがあるというだけではない。上方に向かって一種の渦巻の構図がみられ、その動きが三角形の頂点に立つ男たちが作る対照的な方向性によって、さえぎられていることに気づくだろう。
対照的に上半部は静寂が支配している。供物を頭にのせてバランスを取る女たちは大きな静けさに包まれ、そのために、楽器を手にした男たちが、一見坐っているような印象さえ受ける。(実際は一緒に行進しているはずだ。)
この構成は、ふつうの西洋絵画とは正反対である。われわれは絵の下半部に安定を求める。動きを求めるとすれば、それはふつう上半部の方である。
4今の点は、性的モチーフの読み込みを促す。そしてそういう話になれば、この絵には性的解釈を支える根拠が、リーチ氏の論じたタンガロアの像にひけをとらぬほど揃っている。ちょっと気持をそちらの方向へ動かせば、根もとに二つの像の頭を伴った巨大なファルス(火葬の塔)が見えてくる。このオブジェは、狭い入り口を貫いて、静穏な中庭に差し込まれ、さらに狭い通路への進入をうかがっている。そしてその根もとのあたりには、マコーレイの詩に出てくる騒然たるホムンクルスの群れが見てとれる。
誰一人その凄絶なる攻撃を指揮するものなく、後方からは「前進!」前方からは「後退!」の叫びが上がる。
ここまで思いを走らせれば、橋を守るホラチウスを謳ったこの詩の方も、負けず劣らず性的な主題を扱っているように思えてくるだろう。性的解釈のゲームは、その気にさえなれば、実にたやすく進んでいくものだ。絵の左手に見える中の蛇も、格好の題材になりそうであるしかしまだ、性の物語と並行して別な主題を読み込み、それによって絵の理解を豊かにしていく余地が残されている。つまりこの絵を、男根女陰とともに、葬儀の開始をあらわしている、ダブル・テーマの作品と見るのだ。
するとわずかな想像力で、この絵が、騒然とたぎる熱情を、陽気で礼儀正しいバリ人の円滑な人間関係が(比喩的な意味で)包み込んでいる絵として見えてくるだろう。もちろん、ホラチウスの詩は、十九世紀大英帝国の理想を体現した神話であるわけだ。
夢や神話や芸術を、(関係以外の)何かを表現しているものとして捉えるのは誤りであるとわたしは考える。さきに触れたように、夢は陰喩的であり、夢に登場する「もの」(関係の両端にある個々の項目)をテーマとして、それに焦点を当てているわけではない。一般に行われている夢解釈では、夢に出てくる関係項を他の(しばしば性的な)関係項で置き換えるということをする。しかしそうすることで、われわれはただもう一つの別な夢を作っているだけなのではないだろうか。性的な関係項こそが他のセットよりも基本的であり一次的であったりするアプリオリな理由は存在しないのだ。
芸術作品にその種の解釈をほどこすと、芸術家は普通けげんな顔をするが、それは解釈が「いやらしい」からではない。彼が嫌うのは、一つの関係項だけに焦点を合わせる固定化した見方なのだと思う。テーマの固定化によって、芸術家にとっての、作品の深い意味が台無しになってしまうのだ。今扱っている絵が単にセックスについての絵だったり、単に社会組織についての絵だったりしたら、なんとつまらない絵になっていたことか。ここに挙げた絵がつまらなくない、意味深い絵であるのは、セックスに関すると同時に社会組織に関し、また葬列にもその他のことにも同時に関わっているという、まさにその点によるのである。要するに、これは関係のみについての絵であり、「これ」と特定できるいかなる関係項についての絵でもない。
5この絵のなかで、テーマの特定化を抑えるための処理がなされている点に注目したい。まず、火葬の塔が、全体の三分の一近くを占めるにもかかわらず、ほとんど目に入ってこない。もし絵師が「これは火葬の儀式だ」ということを高らかに主張するつもりなら、この部分は当然背景からくっきり浮きあがるように描かれるはずで
ある。同じく重要な焦点になるはずの棺も、中心のすぐ下という本来目を引く位置にきているにもかかわらず、見る人の目を引かない。その他にも、これが火葬のシーンだということを示すディテールがいくつも描き込まれているが、それらはみな素気なく、ちょうど木のなかにいる蛇や鳥のような、ほとんど気まぐれに添えられた飾りものといった感じである。女たちは儀式の定め通りの供物を頭にのせ、男のうち二人はヤシ酒をいれた竹の容器を正式に携えているが、これらのディテールも何ら中心的な重みを担っていない。この絵は主題を明かすような描き方を一様に抑え、その分だけ絵の重点を3の項で述べた「沸きたち」と「静けさ」との対照にゆだねる構成をとっていると言える。
6 要するに、この作品は「沸きたつもの」と「静かなるもの」との対照に集約される、というのがわたしの意見である。同様の対照または組み合わせは、さきに見た葉の描き方にも見てとれる。そこでも、繁茂の沸きたちを厳正な筆の運びが抑えこんでいる。
この結論から、さきほど掲げておいた問いへのひとつの答えを導き出すことができる。一ーこの作品を創る、あるいは味わう人の心は、システミックな智>へ向けてどのように癒されるのか?この絵は最終的に、「沸きた
ち」あるいは「静けさ」のどちらか一方を目的として選ぶのは、乱暴な、誤った考えである、という思いを打ちだすものである。作者がこの絵を胸に抱き、それを形にしていく過程で、その誤りを明かす経験が得られたはずだ。二つの極は相互に依存しており、一方を排除して他方を選ぶことはできないということを、作品の統一と統合が主張している。この深く、普遍的な真実が、性と社会組織と死の領域において同時に打ち出されているのである。
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