第二の矢
「いいですか? 凡夫と仏弟子の何が違うのか。それは二つ目の矢を受けるか否かの違いなのです」
「・・・・・・・?」
弟子たちは、ぽかーんと口をあけたまま、黙ってしまいました。その様子を見て、お釈迦さんは次のように説き始めました。
「人間である以上、私達は物事、出来事等から何かを感じ、受け取ります。苦・楽を感じたり、そして喜怒哀楽などの様々な感情が生まれてきます。
中には、そういう感情が一切生まれてこない、いわゆる無関心ということもあります。そのような苦楽などを感受する作用や、そこから生まれた感情、また無関心というのも含め、『受』と呼びます。
仏法を知らない凡夫は、二種類の『受』を感じます。それは例えるなら、第一の矢に刺され、そして第二の矢にも刺されるようなものです。
例えば、自分の好ましいものに対して、快い感覚を受け、嬉しいという感情が生まれます。
そして更に、それを熱望したり、執着します。それ故に、飽くことなく貪り求める『貪欲』
という煩悩に囚われてしまいます。
例えばまた、嫌悪するものに対して、不快な感覚を受け、苛立ちという感情が生まれます。
そして更に、それを憎み、憤怒し、また害そうとする心を起こします。それ故に、激しく怒り、憎しみ怨む『瞋恚』という煩悩に囚われてしまいます。
例えばまた、自ら興味を抱かないものに対して、なんら感情を持たない、いわゆる無関心となります。
そして更に仏法であるこの『受』の理(ことわり)を知らないため、自らの関心事のみに心奪われ、視野が狭まります。それ故に、道理や物事をあるがままに見て知ることができない『愚痴』という煩悩に囚われてしまいます。
一方、仏法の教えを聞ける仏弟子は、ただ一つの『受』を感じるだけなのです。それは例えるなら、第一の矢に刺され、第二の矢を受けないようなものです。
例えば、凡夫と同じく、自分の好ましいものに対して、快い感覚を受け、嬉しいという感情が生まれます。
しかしその快感に酔い痴れることがありません。それ故に、『貪欲』の煩悩に染まることはありません。
例えばまた、凡夫と同じく、嫌悪するものに対して、不快な感覚を受け、苛立ちの感情が生まれます。
しかし、その不快感に振り回されることはありません。それ故に、『瞋恚』の煩悩に染まることはありません。
例えばまた、自ら興味を抱かないものに対して、なんら感情を持たない、いわゆる無関心となります。
しかし、仏法の教えであるこの『受』の理を知っているため、自らの関心事以外にも気がつき、視野が広がります。それ故に、『愚痴』の煩悩に染まることはありません。
第二の矢を受けないとは、こういうことなのです」