20220624
言葉指導法Ⅱで、素話の実践を終える。クラスによる温度差があり、講義部分で興味をこちらに引き付けるのが難しい。しかし、それは講義部分にまだまだ改善の余地があるからだろう。学生の資質に頼るような授業ではいけない。学生の資質に関わりなく、彼らの意欲を引き出して取り組ませるような内容の授業を行わねばならないだろう。まあ、講義の後の素話の実践の時はどのクラスも楽しそうにやっていたから、まあいいだろうとは思わせられるけれどね。90分間ずっと意欲を掻き立てる必要もあるまい。メリハリをつけたものであれば、可とすべきだろう。 来週からはデジタル教材の制作に入る。今回は実質的に2回分の授業時間しか割り当てることができない。次年度はもう少し考えるべきかなぁ。せめて3コマ分の時間はとっても良いだろう。また、ロイロノートを制作活動のメインツールとすることも考え直すべきだ。ロイロノートはプレゼン資料を簡単に作ることができるけれど、デジタル教材を作る最適のツールであるわけではない。それならば、ClipsやKeynoteなど、デジタル教材制作により適したアプリは多くある。それらを使えるようにしないとね。補講分のオンデマンド動画ではそうした内容を盛り込もうか。ただ、動画を見ただけではアプリは使えないし、そもそも学生の手元にiPadがない現状では、ロイロノートWeb版に頼らざるを得ないところもある。学生が1台ずつiPadを持っていたら、もっと色々なことが要求できるのかなぁ。そうしたことを、どのように研究し、検証していけるだろうか? 私の補助金付き研究はこのことをテーマにすべきだねぇ。 教養Ⅰ(国語)では、今日から前期の第2部、新書自由作文に入った。新書を自由に選び、1ヶ月かけて読み進め、レターエッセイを書く、というものだ。しかし、今回のミニレッスンはレターエッセイを書きやすくするためのテーマを扱うべきだろう。昨年までの「読むこと」の内容であってはならない。何しろ第2部は「書くこと」の能力を伸長させるための期間なのだから。でも、本の読み方も引き続き紹介していかなければならない。今年は一段とハードルの高い授業内容である。 国語科教育法Ⅲは模擬授業の3回目。新傾向の授業の3つ目に当たる。学生たちは教科書の評論文を読んで要約を書かせる、という言語活動を取り入れていた。しかし、国語教育ではなぜ「要約」が重視されるのかな? 要約など、実生活ではほとんど書く機会などないだろう。むしろ必要なのは、読んだ本や記事などで筆者が何を主張しようとしているのかという「要旨」をつかむことではないだろうか。彼らの授業を聞きながら、そんなことを非常に疑問に思った。国語科の授業現場では、何となく「要約」の方が「要旨」よりも高度で高尚なものと扱われているような気がする。でも、本当に考えてみると、「要約」なんて実生活でどれだけ必要とされる? これは、今期で気づいた最大のことかもしれない。そうした、国語の教室だけで完結してしまう内容を扱うことに、どれだけの意味があるんだろう? だから生徒たちは国語の授業が終わると、ほんのさっきまで真剣に議論していた内容(例えば太田豊太郎はどう行動すべきだったかとか、清少納言が定子後宮の記憶を留めようといかに尽力していたか、など)がまるでなかったかのように、別の話題や次の授業準備に向かってしまう。まあ、授業が毎回そうである必要はないけれども、国語の授業で扱ったことで話題がずっと続くとか、生活態度が変容するとか、といった影響力を国語の授業は与えているんだろうか? ちょっと危機感を持つところだな。 今週は疲れた。梅雨が本格化してきて、湿度が上がっているせいだろうか。睡眠が浅いのかな。朝起きてもどうにもスッキリしない。4月から走り続けてきたこともそろそろ停滞期を迎えているのかな。なんとかここを切り抜けて、7月に向けて準備していこう。7月は今まで以上に大変な立場に追い込まれる。そのためにも、まずは健康を維持したいところだ。