20190513 『「学校」をつくり直す』読了
『「学校」をつくり直す』、苫野一徳、河出新書、2019.3.20
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本日、この本を読み終わった。いやぁ、大満足の本だった。今後、教育を語る上での基本書となる1冊だろう。
第1章 何が問題の本質なのか?
第2章 先生もつらい
この辺りは現状の教育の課題について分析している。ベースとなるのは「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」という現在の教育/教室の大前提を疑うことにある。この前提を疑うことにより、「落ちこぼれ」問題や「吹きこぼれ」問題にもメスが入るし、座学の授業の問題点だけでなく、昨今の猫も杓子もアクティブ・ラーニングの落とし穴についても言及する。教育現場でよく語られる「みんな仲良く」の問題点もある。教員の多忙、ユニバーざるデザインに基づく授業の問題点、エビデンスに基づく教育政策の問題、学力テストの意味など、従来の教育・教師が常識としていたことへの疑問点が次々に俎上に上げられる。なかなか小気味好い。
そして、筆者の根本的な提言である、「教育は、すべての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、すべての子どもが「自由」に生きられるための”力”を育むためにある」という定義が提示され、公教育はこれを通して「自由の相互承認」を原理として市民社会の礎を築くためにある、とされる。筆者の著作を少しかじっているので、この言葉は初めて出会うわけではないが、改めて肝に命じておきたいものだ。 そして、本書の3分の2位を占める3〜5章が続く。
第3章 学校をこう変える① 「探究」をカリキュラムの中核に
第4章 学校をこう変える② 「ゆるやかな協同性」に支えられた「個」の学び
第5章 わたしたちに何ができるか?
この辺りは圧巻である。「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」を掲げ、「探究」を中心にした学びの姿を描いていく。これは実にワクワクさせられる。「探究」とは実は「遊び」に等しい。真剣に遊ぶ者は真実の「探究者」である。先日のNHKテレビで放映された「ボクの自学ノート 〜七年間の小さな大冒険〜」も、そうした学び=遊びの姿を如実に示していた。 「探究」を中心にした学び方を真剣に考え、実践してみたい気にさせられる。
また、教員養成機関の端くれに所属する者として、第5章の「教員養成の抜本改革を」の箇所はなかなかに考えさせられた。「探究」を中心にした授業を実践しようとする教員を養成する機関の授業が、旧態依然の詰め込み式であっては何の意味もない。そうした機関の授業こそ「探究」を中心とし、「プロジェクト型」の授業を中心とすべきだ、というのである。これは大賛成だ。 ただ、2年間という短大の制約の中でこれをどのように実現するか、十分に考えるべきところである。でも、幼児教育の現場はまさにこの「探究」を中心としたものである。日本の教育において、「探究」を通して学びを進めることが中心になっているのは、まさに幼児教育の場である。これが、小学校に入学するとともに「探究」から遠ざけられてしまう。そのことも大問題だが、「探究」が中心である幼児教育の現場に出ようとしている本学の学生たちにも、「探究」を中心とした授業がさらになされるべきだろう。私が自分の授業をどう展開していくべきか、先の2年間という時間の制約を考慮に入れつつ、トライしてみたいところだ。
ところで、「探究」を中心とした学びを、という提言は、かつての「総合的な学習の時間」が取り入れられた頃の議論を繰り返しているようにも思う。あの時、加熱した大学入試へのアンチテーゼとして提案された「ゆとり教育」だった。それが「大学生の学力低下」という声を受けて沈んでいったと理解している。今回、「探究」を中心とした学習への掛け声は、文科省や経済産業省からも上がっている。あの頃とは違う文脈、国際競争力をつけるという声が後押ししていると思われる。今回も、ある意味では「外圧」によって教育の形が見直されようとしている。この中にあって、「子ども」が主語にならないのは気になるところだ。その点、本書はあくまで「自由の相互承認」を土台とした議論が進められている。安心できる。
本書は再読されるべきものである。私は今、久しぶりに本書で読書ノートを作成している。読了したので、今一度読み返しながら読書ノートを完成させようか。