20181130「アウトプット」のためには「インプット」が必要
金曜3限は教養Ⅰ(国語)があり、この授業でライティング・ワークショップを行っている。今年から個別自由作文として、書く題材を学生に自由に選ばせ、30回の授業(1コマは45分)で4つの文章を書くように求めている。今、3番目の作品を書かせている。本来なら、今日がその作品を書き上げさせて、各自の文章を鑑賞する段取りになっていた。しかし、その鑑賞会を来週に延期している。作品を仕上げるのが間に合わない、という学生の要望に応えたためだ。 先週、予定通りに鑑賞会を開いて良いかどうか、リアクション・ペーパーである大福帳に意見を書くように求めた。それを読むと、現段階でもまだ書き終わらず、締め切りを延長してほしいという要望が一定数あることがわかった。そこで、それを受けて鑑賞会を来週と再来週の2回開催することとし、来週に間に合う者は作品を印刷して持参し、間に合わない者は引き続いて執筆して、再来週の鑑賞会その2では全員が提出するように、とした。もともと鑑賞会を2回にわたって開催しようと考えていたので、それを活用しようと考えたわけだ。 しかし、これほどに作品を書き上げることができないものが一定数いるのはどうしたことなのだろう? 学生とのカンファランスや大福帳の内容によると、「書くことが思いつかない」のだそうだ。すでに文章を2つ書いており、もうこれ以上は書くことが思い浮かばないらしい。 これは、重要なことを示唆する。文章を書くためには「書こう」という思いだけではダメだ、ということだ。書く内容が自らの中にないと、いくら書く機会を与えられても書けない、ということが起こる。実は、アウトプットのためには書く内容を自らの中に蓄える、つまりは「インプット」が同時に必要なのである。インプットとアウトプットがバランスよくなければならない。いや、どちらかというとインプットの方が優先するかな。
「書く」ために「読む」、そして「読む」ために「書く」。『第三の書く』という本があるが、それをこうしたライティング・ワークショップの実践を通して実感するとはね。色々なものが繋がっていくものだ。