再読して建築する TEDxUTokyo
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https://youtu.be/ozeCnHxJcv0
鹿の再読を通し、関係性の建築について話をさせてもらいました。 Through rereading deer, I have shared thoughts on architecting relationships.
Thanks for all the voices you have shared.
Michina Handa
Noriyuki Akitaya
Yusuke Asai
Nozomu Onodera
Maya Nakamura
Yasuhiko Kusuda
Mikinori Matsumura
Ryota Sakane
Tomoko Hojo
Yoshie Itasaka
再読して建築する | Yu Morishita | TEDxUTokyo
皆さんこんにちは
東京大学で
建築の研究をしている
森下優です。
建築というと建物のことを思い浮かべがちですが
自分は建築を様々なモノや事、人の関係性
それを作るものだと考えています。
このような関係性について理解を深めるため
今、月の半分ほど北海道のフィールドで過ごしています。
そこで行っている自身の研究活動を
再読。再び読む。英語で「rereading」と呼んでいます。
再読とは
目の前のものを
当たり前だと思われていることを
改めて考えること。
色々な思い込みをすべて削ぎ落として
そもそも問うことを言っています。
皆様が目の前のものと対峙する時、
多くの場合は、
与えられた概念だったり人の頭の中で
すでに作られてしまった。
そのような何かの構造を
相手に当てはめてないでしょうか?
本当に相手のリアリティに対峙して
会話ができているでしょうか?
今日は自分が探索している研究のアプローチ、
再読するという行為について
蝦夷鹿を再読することが
以下に建築たるのか
皆様と共有できたらと思います。
これから
背景に移る画像なのですが
不快に思われる方がもいる可能性があると思います。
そう思うか、蝦夷鹿、熊と思う場合は
これから目を閉じてお付き合いください。
皆さんが
蝦夷鹿、鹿と聞いて思い浮かべるのは何でしょうか?
僕が研究している北海道には蝦夷鹿がいます。
結構そこら中にいます。
東京、都市では出会う機会が少ないと思います。
食べること、ジビエを通してでしょうか
最近は都内でもジビエを食べる機会が増えてきたと思います。
皆さんもどこかでジビエへ出会っているのではと思います。
食べてますか?
好きですか?
嫌いですか?
今、何を想像してますか?
高い
希少
美味しい
痩せ臭い
様々な連想がされると思います。
ジビエという言葉が連想させるのは
様々あると思いますが
実際に食べてるのは鴨、雉、猪、鹿、熊、
この土地に生きる者たちです。
そもそもジビエ、これはフランス語で
狩猟による食肉文化を表す言葉です。
日本の人々が
野生の動物を食するという習慣を忘れて
しまった時代において必要とされた
いわば、認知コミュニケーションですね。
コミュニケーションの架け橋になった
言葉だと思います。
ただ今日本で
ジビエ、ジビエと繰り返しているうちに
日本という土地に生きる者たちにあまり
馴染みのない海外の文化を重ねて考えてい
ないでしょうか?
再読はちょっと待ったと一言発し、
この地に実際に生きる者たちのことを考えます。
それは
蝦夷鹿という相手のことを
自分の思い込みではなく
相手が生きる場所との関係性
さらには
相手と自分が一緒に作っていくという関係性の中から考えます。
今一度、欧州の食文化
蝦夷鹿、重なってしまっている状態から
蝦夷鹿というリアリティに戻して
つまり、再読して、相手のことを考えてみたいと思います。
相手、蝦夷鹿のいるところ、
緑を多き現地へ行けば良いのか?
そう簡単ではありません。
現地でも頭ごなしに
鹿のことを理解する構造これは同じです。
北海道十勝平野南部に自分の研究フィールドがあります。
東京から現地に行くと蝦夷鹿はジビエではなく
酪農を含む農業、林業
いろいろな、業に対する害獣と呼ばれ
撃たれ、そして補助金を得るために
スプレーで記録を取り
尻尾を切られ捨てられる存在です。
本当に捨てられてるんです。
これ北海道だけでなく
実は全国、同じ構造です。
この害獣という理解は全国区
ジビエと同じ解像度でしか相手が見えてきません。
撃ってお終いなのでそこからは何の新しい関係性も生まれません。
現地では害はそこに止まらず
悪い例では人里近くに鹿が捨てられています。
それを食べにヒグマが現れる。
ヒグマも害獣と呼ばれるようになり
また害の枠がどんどん広がります。
ヒグマが現れるので人間の
子供は森に入ることがなくなり
森という空間が遠い存在になっていく
害の関係性は広がるばかりです。
また、補助金を巡って人と人の間のいざこざも絶えず
もうこれは蝦夷鹿の話ではないです
自分たちの自分の話、人間の話になってしまいました。
農業という一つの観点からいらないとされるものは語られますが
蝦夷鹿の観点は少ない。
それが今の現状です。
人の営み、農業の観点が大切なのは当たり前ですが
鹿が生きるのも当たり前だとすると
害だというのは思い込みではないでしょうか?
再読は現地に行くだけでは終わりません。
生きた蝦夷鹿の話をするにはどうしたら
良いでしょうか?
僕が考える再読のアプローチは
現地で頭だけで考えるのではなく現場に入る。
そして、現物に蝦夷鹿の中に入ること。
自身の手足を使って考える必要があります。
相手の空間を理解すること。
それはどのように作られていて、
そこにどのように自分たちの空間と呼ばれるものを作っていくのかを問いかけます。
蝦夷鹿が走り抜ける牧草のあり方、
酪農家に聞き、酪農の空間の中に蝦夷鹿を探します。
牧草地の向こうの河畔林、トド松の植林、
そういう森があるのですが
森の研究者や地域の林業に携わる方々に話を聞き
蝦夷鹿の居住域である森を育む、管理する、計画する、観点に触れ
森という空間の時間の流れ方を学びます。
林業の中に蝦夷鹿を探し
自分たちが作る森が
そして建材ともなる森が
蝦夷鹿の生態系を作っていることを学びます。
猟師の方だと、農地や森、防風林を歩き一緒に猟をするというよりは
蝦夷鹿の動き、広い、第一の植生の中を
蝦夷鹿がどう流れていってるのか
その理解に努めます。
日高山脈から山をつたい、川とその下半林を通して
畑に流れてくる蝦夷鹿の流れ。
目の前の景色が酪農の空間、林業の空間、猟の空間、
蝦夷鹿の空間と重なり見えてきます。
現場の理解から、次は現物と向き合い
実際に蝦夷鹿の解体をここ1年ほど手伝い続けています。
鹿の中から広がる関係性のつながりを探します。
研究を進めるにあたり
食肉加工士、シェフ、ペインター、サウンドアーティストに参加してもらい
一緒に蝦夷鹿の理解に携わってもらいました。
蝦夷鹿は食料としての糧だけではなく
考える糧でもあることが見えてきます。
様々な観点から蝦夷鹿に入ることで
普段捨てられている部位を余すことなく食する当たり前と
郷土料理としての可能性が見えてきます。
蝦夷鹿を打った際の着弾音
この音を録音しに行くと
音を聞くという人の認知のありように
新しい着眼点が生まれ
そして
蝦夷鹿の血を用いて
ペインターは現地の木や石に
絵を描きました。
酪農、畑作、林業、食、音、認知科学、アート、教育
蝦夷鹿をその命を余すことなく考える糧とする日々は続きます。
そこには
すでにいつも存在していたけれども
顕在化してこなかったものがあります。
これまで
肉は捨てられ音は聞き過ごされ
血は土に流れるのみ。
それらの命は存在していませんでした。
農地へ、森へ、河畔林へ、鹿の中へ、外へ、つながる関係性のつながり
打った蝦夷鹿を捨てると
そこで関係性は終わります。
鹿には入れません。
捨てないということが
関係性を切らないということが
命のつながりを人の繋がりを生みます。
大切にするという行為の集まり
コミュニティが
エゾシカのことを考え始めます。
話を聞き、足を運び、手を動かすことで見えてくるのは
都会のジビエも、現地の害獣駆除も、
それはどちらも命を取る話で
終わっていたということです。
そこに命をつくる話
命と共に生きる話は聞こえてきません。
猟師というと
命を取る仕事と捉えられがちですが
ある猟師さんからは
取る命の数が重要なのではなく
撃たないという判断をする猟師が存在でき
蝦夷鹿と森と農地と人の関係性を作っていく役割の一人として猟師が存在する。
その関係性の中で蝦夷鹿の命のことを考えることが必要なんだ。
そう教えてもらいます。
別の猟師は命を取る人が増えるそういうことよりも
命を取ることを理解する人が増えてほしい。
そう言います。
猟師になる人よりも
猟師と一緒に山に入り、山のあり様を、
社会とのつながりを、理解し、その関係性の延長にある
蝦夷鹿の命について
社会の一部として考える
そういう人が増えてほしい。
このように多くの多様な方が登場し
蝦夷鹿の関係性の顕在化は
ジビエや害獣、そういう言葉からはたどり着けてこないところが見えてきました。
目の前のものを蝦夷鹿に戻して
そして、生かして、初めてつながりが持ち始まります。
このように見えてきた蝦夷鹿とその関係性を前にして
具体的に何を持って自分たちは建築するのでしょうか?
相手を自分の牧草地や森の境界から中に入れない関係性、
例えば柵を作るであったり、ボーダーコントロールをする場合
建築の材料は木材であったり、電線有刺鉄線だったりします。
そしてこの、自分はいいんですけども
隣人の牧草地に蝦夷鹿は流れていき
隣人とトラブルになります。
人のいるところから蝦夷鹿を
完全に排除するまで終わらない建築の態度です。
そうではなく今回見えてきたのは
相手との柔らかいコーラスな
動的なバランスを作る関係性も
建築しうる、そういうことだと思います。
銃声の音、人の活動の音、すなわち物理的な周波数、
それが蝦夷鹿の距離、空間境界を作る実際の材料となります。
蝦夷鹿を考え、そして必要とするコミュニティが教育イベント、
例えばですが。なので、森に集まります。
そうすると人の匂い、化学物質が森につくことで
人の空間を主張する材料になります。
また森の育成という長い時間枠の造作、
それは道の付け方であり、植樹と手入れのサイクル
森とどのように関わるかという計画が
蝦夷鹿の流れ方を左右する材料となります。
どれも、人がいないと始まりませんが
人がいてこそ、生きた建築が生まれるのだと考えてます。
この土地の生きる材料の関係性を再構築して
人も蝦夷鹿も存在できる空間が建築できるのではと。
今ようやくスタート地点が見えてきました。
すなわち、有刺鉄線ではなく音、香り、人、時間が
自分たちの空間を、建築を作る材料となることの可能性を
これから探求し始めます。
冒頭に自分は建築を様々なモノや事人の関係性を作る事だとお伝えしました。
それは空間を媒体にするも建物に頼らないこともあります。
蝦夷鹿を再読することで、これまでとは異なる材料で
建築を考えるきっかけになっています。
また、蝦夷鹿を食べることは蝦夷鹿との多様な関係性の中で生じる
この場所に生きる人々の文化の一部でもあることに気がつきます。
フランス文化をかぶっていた蝦夷鹿、害として悪者だった蝦夷鹿
少しは生きる蝦夷鹿が垣間が見えてきたでしょうか?
そして、生きるものたちのための建築
建築自体の考え方が広がるのではないでしょうか?
人がくまなく設計して作られた都市は頭で考え抜かれた
当たり前で満ち溢れています。
しかしそんな当たり前の中では
存在できなくなってきてる命が多々あります。
もう目を開けても大丈夫だと思います。
再読は物事に問いかけるだけでなく
テーブルの上のアイデアをかき回すだけではなくて
実際にそのものたちが生きている、存在する、現地へ、現物へ、
そして、現物とともに改めて考える活動です。
より多くの者たちが生きるそのような社会に向けて
皆さんも明日から再読しませんか?
目の前の当たり前を
ありがとうございました。