ノート(ばる)
ネットで様々な刺激を与えられていると脳が揺さぶられるのでいいが、あまりに加速しすぎているために、チューニングをする。ピッチとスピードを落とす作業をしてる。
音楽
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美術意匠における五番地さんの疑問について
骸骨は死の象徴とされるが、読む側の問題ではないか
腐敗の象徴
象徴とは何か
なぜ骸骨は死の象徴として理解可能なのか
ここら辺の疑問について考えるのは、放置していたイコノロジー研究、パノフスキー、カッシーラー、ユベルマンの著書に対して再度取り組む機会にできるかもしれない(五番地さんの疑問に返答するかは置いておいて、アープラで出た問いをきっかけにして過去の課題を再度読み直す、考え直すきっかけが得られるので、これだけであそこにいる意味があると考えている)。
取り組む図像学、象徴、美術の本
ただ、これらの本は難解かつ分量も多い。大変な作業なのでまた放置する可能性あり笑
若桑みどり『絵画を読む』
絵画解釈の方法論
絵画は(解釈するものではないという)感性の話になりやすいが、知の側面も重要である
美術史→歴史学→既知の事実から出発する
時代、文化、社会構造、技術、経済的基盤の検証
その絵画が描かれた意味、意図、目的
文字資料→テクストと絵画の関連づけ→図像学
画面の外の諸々の出来事以外の研究→画面そのものの研究→様式研究
パノフスキーの図像解釈学(イコノロジー)への段階
①第一段階/自然的意味(様式研究)→普遍性
②第二段階/伝習的(図像学)→約束事
③第三段階/内的意味/内容(図像解釈学)→精神性
研究者の間でも、イコノロジーの前段階、資料集めや作業に手一杯で解釈学まで手につかない状況はある
特定の時代に有効な方法論でも、別の時代には有効でないことも多い
ただいかなる純粋絵画でも、時代と文化の文脈を逃れることはできないはず
すぐれた作品は、解釈できる。すぐれた作品は、画家の精神中枢から創造されているからだ。一人の人間にとっての真実とは、必ず普遍性も持っている
ユベルマン『イメージの前で』
実はこの本は、”知”の言説として確立された美術史を批判的に解体したものである
だから、所謂パノフスキーのイコノロジー研究についても批判的な道程を辿っている
前回読んだときよりは理解できるか?
美術史は征服的な企てである
確信的な調子
必然的な記号学に従って読まれ解読されているように見える
あらゆる概念をイメージに、あらゆるイメージを概念に翻訳できるという確信に基づいている
ここには真理という暗黙のモデルが存在する
事物と知性の一致
理性の問題
カント、カッシーラー、パノフスキーの系譜
言葉の特殊な使用法はイメージの世界が知の世界に提起する難問を一瞬にして解消する
非ー知
裂け目
フロイト
無意識の形成物に特有な形象可能性を指し示していた
このユベルマンの使う非ー知と、"裂け目"みたいな部分をつかむのが難しくて、僕をこの本から遠ざける
おそらく非ー知の部分ゆえに、言葉で説明することが難しく、迂回した言い方になってしまうのかもしれない
『アンフォルム 無形なものの事典』
この本も何が言いたいのかよくわからなかったのでちょっと読んで放置していたのだが......
読んでみると、この本が何をやろうとしているのか、ようやく飲み込めた気がする
これは、形式や内容といった既存の(特にモダニズムにおける)美術批評を突き崩そうとする本なのだ
形式や内容といったその両者を場違いなものにする操作に焦点を当てている
我々が引き合いに出すことができるような安定したモティーフや、象徴可能な主題、特定の性質というよりもーー位階秩序(ヒエラルキー)化されないものーー階級を落とす(=分類を乱す)操作自体を可能にすること
これがアンフォルム
何を言ってるかわからないかもしれない。ひとつの例としてバタイユの『ドキュマン』に寄稿した、ミシェル・レリスの文章からの引用
あらゆる哲学的言説は、言語活動と唾が同一の源泉から発しているという事実ゆえに、唾を飛ばす演説者という不作法なイメージでたとえられるのがふさわしい
唾は、高尚な哲学的、言語活動の階級を落とす操作が可能なのである
で、えーとこのアンフォルムを、モダニズム(20世紀以降の芸術)を逆撫でする操作として用いることで、従来の美術批評に抵抗できるんちゃうかという話
それにはまず、モダニズムの従来の美術批評による作品の分類について考えないといけない、と
こっからが難しいので保留
もしかしたらすごくおもしろい本なのかもしれない
笑い/不気味なもの
ベルクソンとフロイトの論考を一緒にした本
亡霊について調べていたらフロイトの『不気味なもの』という論考を知った。その流れで見つけた本。購入予定。
芸術の非人間化
オルテガは、芸術作品を自分の情緒と同化させるような鑑賞は、芸術作品を真に理解することとは違うと言う。
考察をすすめるに当たって、はっきりさせておきたい点が一つある。いったい大多数の人間は何をもって美的快楽とよぶのであろう。たとえば、演劇のような芸術作品を「好い」と思うとき、どのようなことが彼らの心に起きるのだろう。答えは簡単である。或る劇が面白いのは、彼らが目の前にくりひろげられる人間の運命に関心をもつからである。つまり登場人物の愛、憎しみ、喜び、悲しみに心を打たれ、それらのことが現実に起こっているような心地で劇の世界に没入させられるからである。そして、彼らは、架空の人物を実在の人物として錯覚させることのできる劇を「好い」とするのである。詩を例にとるなら、彼らは詩人の背後にいる人間の情熱と苦悩を感得しようとする。 絵画に惹かれるのは、彼ら自身が知り合いになりたいと思うような男女が描かれているときである。風景画が「きれいだ」と言われるためには、わざわざ旅行してまでも見たくなるような景観の美や雄大さが、画面になくてはならない。
このように、大多数の人にとっての美的快楽とは、日常の心の動きと本質的に区別しがたい心の状態であるように思われる。 それはふだんの心の状態に比べて若干濃い色合いをもち、利害への考慮がいくぶん薄く、しかも結果としての苦痛の外にいるという非本質的な点において、異なるにすぎない。 彼らが注意を向ける対象、したがって彼らがそのほかの精神活動をもふりむける対象は、日常生活におけるそれと同一のもの、つまり人間とそのもろもろの感情である。 彼らの考えでは、芸術とは興味ぶかい人間の諸事件に接する手段なのである。芸術本来の方法ーー虚構、幻想等はそこに人間の姿や運命を知るうえで差し障りを生じない程度まで大目にみられる。しか し、ひとたび純粋な美的要素がのさばって、ジョンとかメアリーとかの話が捉えにくくなると、それが劇であれ、詩小説であれ、絵画であれ、彼らは背のたたない深みに落ちたように途方にくれてしまう。彼らは感情が掻きたてられてから熱中するという実際的な態度以外の態度に慣れていないので、情緒の仲立ちのない芸術作品には理解の手がかりを見出せないのである。
さて、次の点は明確に理解されねばならない。すなわち、芸術作品が描きあるいは語る人間の運命を悲しんだり喜んだりすることは、真の芸術理解の歓びとは異なる。しかも、作品の人間的内容に心を奪われることは、本来の美的享受と原則的に相容れないのである。
『芸術の非人間化』p12より
人間的な視点と非人間的な視点
さて、われわれはここで美学の本質にかかわる事柄に触れねばならない。 これをさしおいて芸術を、その新旧を問わず、充分に分析することはできない。現実のもろもろの様相の中で、すべての様相の前提をなし、すべての様相がそこに起因するところの様相がある。「生きられた」 現実である。 かりに人間が、一人として気も転倒するほど「生き」ることがないとすると、医師は憂慮しないし、新聞の読者は哀れを誘う記者の文章を理解しないし、悲嘆にくれる人物に囲まれて死の寝台に横たわる男を描いた画家の絵も、意味をもたなくなるであろう。 対象が人物であれ、事物であれ、事態であれ、これは同じことである。リンゴの第一様相は、われわれがそれを食べようとするときにみる、その様相である。ほかに考えられるリンゴの諸相―バロック風の装飾にみるリンゴ、セザンヌの静物画のリンゴ、少女の頬の月並な隠喩としてのリンゴ すべてそれらはいくぶん初めの様相の名残りをとどめている。 絵画も詩も、「生き」た様相のなごりがなければ、理解できないものとなる。すなわち、通常の意味を剥奪された言葉で綴られる論説が無内容となるのと同様に、無内容のものとなる。
つまり、現実度の尺度においては「生きられた現実が特殊な優位性を保っており、それを「唯一」の現実であるごとく思わせるのである。さて、「生き」られた現実という表現は、「人間的」現実と言い直すことができる。臨終の場面を平然と眺めた画家は「非人間的」であると考えられよう。人間的視点というのは、換言すれば、人が事態・人物・事物を「生き」る視点である。さらにこれを逆に言うなら、諸現実――女・景色・事件は、それらが通常の「生き」られた様相をおびるとき人間的なのである。
さて、世界を構成する 現実の諸相のうちに、たとえば観念とよぶものがあることを述べておこう(その重要性については後に述べたい)。われわれはものごとを考えるとき、観念を「人間的」に用いる。たとえば、ナポレオンについて考えるときに、われわれはふつうナポレオンという名の偉人を考える。ところが心理学者は人間ナポレオンを捨て去り、ナポレオンについての観念を、観念として分析するということのために、探究の目標を自己の心の中に求めるのであるから通常と異なる「非人間的」な態度を採ることになる。心理学者のものの見方は通常の生活において行なわれ るそれ とは反対なのである。そこでは、観念は対象を考えるための道具ではなくなり、それ自体が思考の対象となり、目的となる。以下では、われわれは新芸術による観念の「非人間的」な倒置法の思いがけない例をみることになろう。
同上p20〜より