行動中心の読書
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自分に何かはっきりした課題、 それも主として行動上の課題があって、そのために本を読む。
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「子どものときから、あまり読書好きの方ではなかった。 中学生時代は本を読むよりスポーツの方にいそがしかった。 (中略) 中学3年生のころに、一つの転機があったようだ。(中略) わたしのやり方は、 自分に何かはっきりした課題、 それも主として行動上の課題があって、そのために本を読む。 いわば、 行動中心の読書法である。 これはいまに至るまでつづいている」 (『私の読書法』より) 本というのは「へえ、なるほどー」と読んでオシマイではなく、読者が何か具体的に行動するためのきっかけづくりでないといけない。
favoritebooksonly 2017年8月18日に日本でレビュー済み
知識のネットワークが組み上がっていく
梅棹忠夫氏による「行動中心の読書」を特に興味深く読みました。 「行動中心...」とは、ある行動をするのに必要な知識を得るために本を読む、ということ。
何かを調べていて、そのことについて知れば知るほど、もっと深くもっと広く知りたくなる。
ひとつの興味から始まって、枝が広がり互いに絡みあうようにして、知識のネットワークができる。
人それぞれ興味のおもむくままに本を選び、それぞれ違う方向に知識が積み重なっていく。
...というイメージです。
次に本を読むときは、知識のネットワークが組み上がっていくのを想像できそう。
ワクワクさせる文章です。
わたしは、自分が実地に歩いて見てきた事実を、本の中に発見し、その歴史的・理論的な意味をさとる。本で得た知識は、実地の体験で確める。この操作をくりかえすうちに、わたしは重大な教訓を得たようだ。それは、本というものは、かならずしも信用できないものだということである。現地に行ってみると、本に書いてあるのとちがうことがずいぶんある
わたしは、けっきょく教養人であるよりも行動人だったようだ。やっぱり、行動的な課題を中心に読んだものの方が、はるかに多いしかつ身についた。
高校時代、わたしはずっと山に登っていたが、山がわたしのほんとうの読書指導者であった。山で、天候の変化を予知する必要から、岡田武松博士の本などで、いくらか系統的に気象学の勉強をした。それで呼びおこされた興味が、のちに気候学につながり生態学に進む素地の一つとなった。また、山へもってゆく食糧を合理的なものにするために、栄養学を学んだ。高校へ入ってはじめて読んだ英語の本は、名は忘れたが、小さな栄養学の教科書だった。冬山の、雪崩などにそなえて、SeligmannのSnow Structure and Ski Fieldなどという本を輪読した。学校でならう化学や物理学は、まったくのろわしいほどのものであったが、自発的な勉強なら、こういう化学や物理学の本もたのしく読めた。
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好きこそ物の上手なれじゃないけど、自分の興味に従い行動するにあたって必要なものを手当たり次第読んでいく様 関心の焦点は地誌と歴史書という。文芸書、哲学、小説も梅棹忠夫にかかれば、年表と地図を用意したうえで、地誌と歴史書として読まれるという。 図鑑や地図を読むことで、世界の多様性について無限の空想を刺戟される
梅棹にとってそれは空想ではなく、現実的な行動目標とつながっている
「高さを求める登山は、未知の広がりを追う探検へと変貌していった」といっているように、年表(歴史)と地図を片手に読書もどんどんと末広がりに広がっていったという
比叡の歴史→大原御幸→平家物語などとどんどん繋がり
図鑑で動物、植物の名前を覚えた
高さを求める登山は、未知の広がりを追う探検へと変貌していった。
こういう読書を通じて、わたしはまた、理論というものがどういうものであるかを理解した。活字よりも経験を重んずるだけに、その経験が、傍証によって、より一般的な理論にまで高められる過程を人一倍の感動をもってみたのである。
行動的課題中心の読み方というものは、「つぎはこうしてやろう、そのためには」という読み方だ。いわばいつも勉強であり、調べものである。行動が目的であり、読書それ自身が目的にはならないのだ。だから、なるだけなら本を読まずにすませたら、それに越したことはない、というようなことにもなる。
読書を役に立たせることはできても、読書を享楽する術を知らない。
小説も梅棹忠夫からすると、地誌や歴史書にしか見えないのだから、物語を楽しむという観点はなかったのだろうmeganii.icon