批評とは、論理によって可能世界を見せること
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疑問
批評とは、評価の固定された既存の情報を論理的に再構成し、新たな解釈の可能性を提示すること i.e. 論理によって可能世界を見せること
可能性の提示
批評とは、評価の固定された既存の情報を論理的に再構成し、新たな解釈の可能性を提示することであり、一言で言えば、論理によって可能世界を見せることである。AはAだけど、Aだけであるとも言えない。そこにはBの可能性もありCの可能性もあって、Bとする場合かつてAaだったものはBaであり、Cとする場合Aa だったものはCa である。あるいはBbやBc、CbやCcといった選択肢も考えられる。選択した解釈によって、進むべき道は無数に分岐する。そのように、オルタナティブな未来の道筋を提案することが、僕らの社会にとっての批評の役割である。
過去と現在と未来は、一本の道でつながっているように見える。でも本当は、そこにはいくつも穴が空いていて、その穴に入ると別の道につながっている。歩いているときには気づかないが、道は一つではない。過去は一つではなく、現在は一つではない。未来は一つではない。
批評家は、道の傍らに小さく空いた穴を指し示し、僕たちに別の道を教えてくれる。硬直したこの社会にあって、それが役に立たないとは、誰にも言わせない。あるいは、それが役に立たないと言いたがる誰かにとっては、そう言うことがそいつの何かには役に立つのかもしれないが、それはそいつであって僕じゃない。
批評を忘れるということは、可能性を忘れるということで、批評を忘れるということは、硬直したこの愚かな社会を支持し再生産することだ。批評をし、批評家になることで、僕らは別の社会のありかたを思い描くことができる。批評をし、批評家になることで、僕らは社会を柔らかく、豊かなものにすることができるだろう。
なお、批評家はSF作家と言い換えてもいい。批評もSFも、ここではどちらの役割も似たようなものだ。少なくとも、僕はそう考えている。