法然に関するレポート
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下書き?
現世利益を求める祈祷仏教と現世利益を否定する浄土教と。現世利益を達成するために国家権力の一部となり秩序維持の効果を持つ。呪術にリアリティがあった。近代仏教は科学の合理主義に影響を受ける。救いの物語の効能は減った。機能分析。現世否定の物語を本筋に置く限り、政治経済的な主張をしづらくなる。どうせ何をしても凡夫は解脱できない。たとえ解脱できなくともこの世界における苦を減らすことはできないか。物語の乗り換えによる効能は、欲望ゲームから降りて、それまで参加していたゲームにおける不安を無効化し、死や将来に対する不安を軽減すること。
資本主義において人々の欲望ゲームによって増やされたパイにより多くの人々の生存が可能になり、多くの快楽と多くの苦痛を生み出した。
慈悲について 利他主義といいながら浄土教徒は信仰により思考が制限されているからこそ仏教というカテゴリーでしか物事を考えられない。医学が科学という方法を採用し最適な治療を最適なアルゴリズムで体系化したことで医者となるだけの学力を持っている人間は例え前近代的な医術的なカリスマ力がなくとも誰でも医者として最低限の実力を発揮できるのと同様に、法然の浄土宗においては最適化された行をこなし信仰心を抱いて阿弥陀仏に救いを求めていれば、少なくとも外見的には
悟った人間は、悟りというゴールに他者を導くことはできても、それ以外の方向性の救いを教授することは難しい。苦痛を軽減する方法や取り組み、思想、システムは現代においてたくさんありそれらの救いの手段は完璧な治療薬にはほど遠いがそういった治療薬しか効かないという人間だってたくさんいる。悟った人間はその性質上欲望を喚起してくれないと到達できない分野の知識が抜け落ちているに違いなく、他者との交流が原理的に難しいように思える。
イメージ先行で分かりやすい。ただでさえ戒を減らしてしまった行よりも信に重きを置いている事の利点。科学はその信仰体系を維持するのに大変な予算がかかる。資本主義とセットになってようやく維持できる。インターネットという基礎インフラも。アニメや漫画も出版業界が機能しないと新しい作品を作れない。電力の安定供給が断たれるなどして経済が大きく機能を喪失してしまえば科学や高度情報社会も機能不全になって救いの機能はなくなる。科学の恩恵が医学や経済学、社会保障といった形で安定供給されている限りにおいて人々は迷信と科学を区別する。伝統的宗教の強みは人間同士の宗教共同体を軸に快楽を生み出している点。
本当の事かどうかということは問題ではなく、それを信じる人がいて彼らが自らの思考を自らの意志で検閲して自らの行動を制約することを可能にしている権力構造に価値がある。
人間の存在不安。他者に比べて自分が損しているとか間違っていると思う事に耐えられない。死への不安。
ハードの問題(人間の身体はそれぞれ固有差があるにも関わらず、同じ評価基準が適応されうるのか。)人間の身体というハードウェアには食欲や性欲などの欲望を抱くように元々プログラムされている。欲望を完全に喪失してしまえば、人間は淘汰されて種の存続ができない。快楽や苦痛は欲望から生み出される。
人間がそれぞれ欲望追求をしたとき必ずどこかで利害が相反してしまう。自然災害や戦争などの人災でも多くの命が亡くなるし、経済が適切に機能しなくなれば苦痛の総体も増加する。
欲望を抱くことが凡夫たる証というのは。
悟りに近いレベル別で最も悟りに近い人間でさえ凡夫なのだから
凡夫という思い切った評価は人間の現世努力をあまりに軽んじていると思う。一方で輪廻の思想は
仏教というソフトを巡って様々な更新がなされ、その結果たくさんの主張の異なる仏教が生まれた。布教環境や時代の違いを考えれば、原点の在り方に固執するのが最善でない状況もあっただろうし、賢明な判断である。
罪の評価をどういう風に行っているのか。(自殺や事故死)こういった問題を回避するのに輪廻というアーキテクチャーを世界解釈に組み込み(もしこの生が駄目でも来世で解脱すればいいから)、
浄土はあやつりの国か。全体主義の浄土。人々はみな悟るという目標の為に自然に
啓蒙専制君主制において人間の暗部が見えなくり理想が実現したと思うとき幸せそうな顔をする。推理小説に定番のあやつりのテーマ
(『神、さもなくば残念』第四部参照)伊藤計劃 『ハーモニー』『屍者の帝国』両作品において人々の争いを無くすために前者では自由意志を後者では生命を取り払いゾンビにした。『ささみさん@がんばらない』では鎖々美さんは移譲された天照の力のせいで人間のみならず八百万の神から愛されてしまう。誰もが彼女の前では意志が無くなって媚びるように操られてしまう。前述の『ささみさん』では天照が生命をつくった起源からやり直し
て全て無かったことにするかどうか。
アニメ『かぐや姫の物語』では天人の秩序破壊につながりかねないかぐや姫に羽衣をかぶせることで彼女の生命への意志を奪う。
信仰に重きを置き、聖典に担保された正しさを信じなさい。疑念を抱かぬよう。行動分析学的な観点からみても
アニメ『 Phyco-pass』において人々はシュビラという AIの決定を信仰する都市において合理的に管理される人間達の姿は劇場版において国外の無法地帯の惨状と対比され、どんなに不都合な闇を裏に抱えた都市でも生活の安全が保障されているならまだましだと思わせる。
シュビラの信託を疑うものも実際に信託通りに行動すると満足いく結果が得られ、システムへの信頼を深めていく。仏教の悟りも同様である修行を通して悟りに近い体験をしたならばそれは仏陀および彼の残した戒に対する実感的な信頼を得るだろうし、歴史を紐解いてみればそういった経験に基づく仏教の信仰者はごまんといた。だからこそ現代にまで残っているのだと思う。
この世は全て苦だ、そこから解脱するしか救いがないと説く事には納得するし、輪廻というシステムも哲学的にも簡単に棄却できないことは認めるけど、それでも飴と鞭のように
六道をわざわざ仮定してより不幸になりたくなければと脅す姿勢はよくないと思う。この世の苦と向き合って生きる方法だって
アニメ『輪るピングドラム』において登場人物は何度もある妄想から別の妄想への乗り換えをしながらお互いに過去のトラウマと向き合っていく。浄土教が現世利益を否定し、極楽における解脱を説く姿勢はあくまで現世への妄想から別の妄想への乗り換えにすぎず、原始仏典の悟りの一切の妄想を断ち切るあり方と比べると浄土宗の説く極楽の滑稽さが際立つ。
功利主義的な幸福の総体を増やす発想を退け、来世での
カントの定言命法と仮言命法の区別でいけば原始仏典の戒律の順守の頃は定言命法
自分を信じてくれた人しか救わない。救う力がない。六道輪廻は『魔法少女まどか☆マギカ』で語られる魔法少女システムとそっくりの醜悪な構造だと思う。阿弥陀仏が干渉すべきはその輪廻システムであって僕なら起源における物理定数を少しいじってファインチューニングを乱してしまう。この宇宙に生命が存在できなくなるのだから生命が罪を重ねる余地もなくなる。
『かぐや姫の物語』、『灰羽連盟』、『あの日みた花の名前を僕はまだ知らない』、『 Angelbeats!』
における輪廻
20 × 20
提出用? タイトルは忘れた
脱魔術化された現代において宗教の代替となっている学問体系やインターネットなどの情報基礎インフラ、電力の安定受給、教育などの社会保障の充実といった条件がそろって科学の信用性が担保されておりそういった条件は災害や戦争であっという間に崩れてしまう。
人間というハードウェアは個体差があり、寿命もある。一生涯のうちに取り込むことのできる情報量は限られており、またアウトプット(行動や思念の総体)も限られている。全知にほど遠いハードが自身にプログラムされた欲望に基づいて行動するとき、どんなソフトを優先的にインストールするべきなのかを考える。ソフト同士を比較し、機能分析することでそれぞれの思想に優先順位をつける方法をとる時、浄土宗が仏教というカテゴリーのなかのみならず様々な思想が群立する現代においても価値を持ち続ける理由が明らかになると考えられる。
浄土宗というソフトの効能を分析する。初期仏教の戒律重視の信仰体系では世俗との両立は難しく、日本へ伝播しても祈祷仏教や国家護持の機能が重視され、より才能のあるもしくは環境に恵まれた個人が自力で悟ることがあり彼らのパトロンになった者にとって呪術的恫喝により権力秩序維持に役立つことがあっても、ソフトが直接民衆にインストールされ彼らの不安の軽減に繋がるということは限られていた。人間には性別差、身分差、知能の高さの差があり、インストール条件を満たすことの叶わなかったより多くのハードにインストール可能な形に仏教を土着化させたのが法然である。初期仏教において女性不成仏であった原則に異議を唱え女人往生を説いた。
仮に悟りの状態を 100点とし、40 点以上を合格点と仮定する。浄土に住む人々は 40点よりも低い赤点を取ることが一切なくなる。理由は信仰と阿弥陀仏の援護を受けた心を惑わすことのない環境で専修念仏できるから。法然は長年の修行から自分の限界を自覚した。法然は当時の日本仏教界で主流だった聖道門というソフトを利用した修行方法では凡夫の自分は往生できない、つまり 40点以上とれないと言い、修行僧として実績を上げていた(つまり傍目から 40点以上の点数を取っているもしくは取りうる偉いお方だと思われていた)法然でさえ往生できないとしたら一体どんな方法をとるべきなのかと仏教界に波紋を起こし大原問答などの有力者間での討論を契機に自分の思想を広める土壌を作った。彼の主張はこうだ。善導が『観無量寿経疏』で説いた『無量寿経』の「弥陀の本願」の重要性と定善と散善の両輪の修行方法に着目し、法然は凡夫の自分が往生するなら散善に重きを置くべきだと再度解釈を加え、法蔵菩薩が悟りをひらくにあたって契約した 48願のうち18 願を信じて念仏三昧することで阿弥陀仏に浄土往生を手伝ってもらう方法の有効性を証明した。
このアップデートで誕生した浄土宗は特別な環境や知識を必要としない専修念仏という方法でこれまで救いの対象外だった多くの民衆にも受容されるようになった。
現代においても浄土宗が力を持つとしたら簡略な行とイメージ先行で分かりやすく世俗の身まま宗教を受容することが可能な点と信仰体系に葬式仏教という形で死という概念に向き合う側面を残している点だと思う。現在宗教に代わり人々の拠り所になっている資本主義のもとで生み出される娯楽一般は経済が適切に機能する限りにおいて大量生産、大量消費することができるが、輸送や情報の基礎インフラが災害や戦争で痛めつけられたとき、書籍やアニメなどの娯楽物を気軽に手にいれることができなくなるかもしれない。大量の電力によって維持されている世界の経済の現状からこういう話はあながち杞憂で無い気もする。伝統的宗教の強みは情報間のやり取りではなく生身の人間同士顔を合わせた身近な距離における共同体を軸に快楽を生み出している点。人々が集まり、同じ信仰を持ち彼らが自らの思考を自らの意志で検閲して自らの行動を制約することを可能にしている権力構造に価値があり、時に国家権力との癒着が懸念されることもある。浄土宗の場合、現世利益否定なため現世における善悪の評価にアバウトな所が弱点である。知識を集積し、分析し正しさを厳密に追及する科学と浄土宗の両輪で当面双方の弱点を補って存続していく戦略がよさそうだ。
メモ:Twitterよりニー仏さん
いつも言いますけど、異性から承認を受ける程度のことで埋まってしまうような穴なのであれば、下手に哲学やら宗教やらに手を出さずに、さっさと異性から承認を受けるための努力にリソースを全振りしたほうが絶対に早いし楽ですよ。
まあ宗教にも色々あるし、承認パコの代用として消費し得るような種類のものも多いだろうけど、個人的には承認パコで済む程度の問題ならさっさとそちらで済ませた上で宗教のほうを向いたほうが、ずっとそのリソースを有効活用できるだろうとは思いますね。